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隠れたるより見わるるは莫し:木崎被告の死刑判決 [司法問題]

裁判員裁判で使命を果たした裁判員も悩みに悩んだ結論だろうと思う。
物的証拠はなく、自白や自供もなく、犯意を否定している被告を状況証拠だけに依拠して判決を出すのは法の世界では専門家でも悩むことである。疑わしきは罰せずという大原則が、法運用の古来からの原則であるからである。
和歌山のヒ素入りカレー事件も同じような案件であった。殺意はなかったであろうが、水俣病の原因究明の時にも資本や政治が介在したので疫学的証拠だけで有罪にはならず多年の時間を要した。
今回の事案は、特異な個人の特異な事件である。被告本人にはどこか人を惹きつける何かがあるという説もあるのだから、結婚願望や出会い欠乏の立場に立つ者が罠に陥ったのだろうと推察できるだけである。だから、被告人が即時上告したのも当然の帰結である。
逐一この事件の顛末を追跡したり、判決文を綿密に読んでいないので直観に頼るだけだが、古人が発している「微なるより顕かなるは莫く、隠れたるより見わるるは莫し」という言葉を想起させた。この言葉は法的問題に関わって発せられたものではない。
被告本人だけが知っていることである。その本人が否定しているとき、余人がその内面に立ち入って法的対応をせねばならぬのだから、実定法の範疇をある意味では超えた問題である。自然法に従った対応というか適応が求められたというか、意識せざるを得なかったという法哲学の根幹に関わる事案だったと言える。法哲学の根幹に関わるということは倫理や宗教観の問題がその底に横たわっているということである。
死刑判決もさることながら、終身刑の審決という選択の方が重い判決のようにも思ったりしている。
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