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九月九日 [生成論]

けふは救急の日です。語呂合わせから来た日ですが、もう一つ重陽の節句でもあります。
なぜ重陽の節句なのか。陽が重なっているからです。この世界は気から成り立っていて、その気は陰と陽の二つの性質を備えていて、陰の性質が強く表れると陰になり、陽の性質が強く出てくると陽になります。
数字で表すと、陰は六、陽は九で表します。九月九日は陽が二つ重なっているので、重陽の節句と呼ばれる次第です。魏晋以降、この日に高台に上がって遊宴する習俗ができ受け継がれてきたようです。
なぜ高台に登るのかは、明確には分かりませんが、重陽は天を指す言葉でもあり、九は陽数(奇数)の極みであることと結びついている、つまり高いところに登るという行為になったのかもしれません。
ただ、陰陽を原理にする易の考え方は、中庸と中正を尊びますので、上り詰めることを尊ばないと言えるでしょう。
気について、陰の気と陽の気と二種の気があるという立場があります。気二元論と称せられます。上で述べている考え方は、気一元論の立場です。どちらが正しいのかは世界観の相違ですので何とも言えませんが、筆者は気一元論の方が生成論としては根源的だろうと考えています。
宇宙の成り立ちの原初を無極と説明しつつ、一方で太極とも表現します。「無極にして太極」という言葉はその凝縮です。
この世界の始まりを追究していくと無に行きつくと考えるのですが、始まりを無と言ってしまうと存在としての有が説明しにくくなります。そこで混沌と称したりもしますが、その始源から生ずる気が最初から陰の気と陽の気の二気があったと考えるのは論理的ではないように思うわけです。
元気を出して!というのは、宇宙生成の気と一体となり、その気を呼び戻しそのエネルギーを我がものにせよということでもあるでしょう。浩然の気を養うというのも同じですが、この場合は修養が求められているのではないかと思います。
ところで、陰気な人というのはマイナスのイメージを与えがちですが、陰と陽とには価値的には差があるわけではありません。陽がまだ顕在化していなくて、陰の気が強く表れているだけなのでしょう。
陽動作戦という言葉があります。この場合の陽には「いつわり」という訓を与えています。表面と隠れている部分とは必ずしも一致しないことに想いを致すべきことをこのことは教えてくれているように思います。
天気は動きます。陰気が強く働くときと、陽気の働きが鈍い場合とあるからです。人気も不動ではありません。個人でも陰の気に支配されている時もあれば、陽の気に左右されている時もあります。
陰陽のバランスがとれているのが、一番の望ましいのでしょうが、今日のこの記事は陰の気に勧奨されてなのか、陽の気に差配されてのことなのか、自分でも分からない状態です。

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