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科研補助費(11500円)の不適切処理と巨額損失 [大学問題]

某大学のホームページに「科研費補助金の不適切処理に関する学長のお詫び」というのが載せられているのをたまたま目にし気になって通覧した。
そこで記されている不適切処理の内容は、下記の如くである。

不適切及び不正支出と認められる研究費の額
11,500円
内訳:①物品費((消耗品)2800円)②旅費(宿泊費(6500円)及び日当2200円)

①については、図書費の過誤による二重請求と説明されている。
②については、学会出張中に勤務地周辺でタクシーを利用していた。学会出張は空出張である疑いが濃く、当該教授から合理的説明がなされなかったので、故意に基づくと判断されるとある。

この教授に支給された科研費補助金総額は不明であるが、メディアを賑わせている科研費の不適切処理、流用等で報ぜられる億円単位、もしくは千万円単位、あるいは百万円単位の経理に比べると、一円でも盗めば泥棒には違いないとはいえ、不適切処理として一般社会に公表せねばならないと言えるほどの金額とも思えない。出納違算金の範囲に収まる程度の金額であろう。

調査の経緯を読むと、当該教授に関わる諸問題の調査の過程で、科研費補助金の不正処理が露見した諸問題の一つのようである。他の問題は、公表するに及ばない大学内部の問題なのであろう。
科研費は、公的資金、つまり税金だから敢えてこの程度の金額をも不適切処理として公表したのであろう。潔癖にして高潔な大学の姿勢と言えば、言えるかもしれない。
原理原則的に言えば、経理には、不正や不適切な使い方があってはならないのは当然である。
とはいえ、感覚的に言えば、この程度の金額で疑念をもたれるような使い方をする金銭感覚の受けとめ方は人によって異なる所があろう。
総じて、大学や研究機関に所属する人の金銭感覚は細かいことが多いようである。大学や研究機関の人と仕事上で関係を持ったことのある民間企業の人の感想である。
恐らく、研究者には所謂交際費として計上されるような費目がないからであろう。企業の羽振りが良い時の交際費の使い方は並大抵ではなかったとか。だから、一端企業が財務を引き締めて交際費の大幅な節約などに走ると、そうした客層を上得意にしている店の売り上げは激減するというのは、そうした店を経営する人の証言する所である。
格別な収入や交際費などが期待できないとなると、科研費などがその代わりを果たすのかもしれない。
自然科学系の実験を伴う大規模研究だと数億円単位の科研費補助が計上される。

独立法人化する前の国立大学時代、そこに所属する知人の話では、文教費の削減が俎上に上って以来、大学内での研究費が厳しく削られて、研究費については、科研費の申請が強く求められるようになったとのことであった。近年はその傾向が更に強まって科研費補助によらないと研究もままならないという。ただこの補助も申請すれば通るというわけではないらしい。何年か継続申請して、認められるのだという。補助金申請のための書類の作成も相当な時間と労力を要するというのである。

私立大学では、法人独自の研究助成が予算化されたりしている大学も多いようだが、そこでもやはり文科省の科研費申請が先ず求められるようになってきたともいう。

該当の教授の専門分野は不明であって、不適切処理の補助金総額に占める割合も分からないが、学校法人として理事長・学長名で事々しく公表する金額でもないように思うのである。帳簿上不明な点があるので、経理上明確にした再報告を求め、その上で大学内部で処理すればすむことであろう。

ところで、この大学も、数多くの大学のご多分に漏れず、デリバティブに手を出して、100億円に垂んとする資金を費消している。資金運用に名を借りた投機に走った経緯や責任の問題については、内部調査が行われて一定の報告がまとめられたそうだが、それが公表されたという話は聞かない。内部の人に聞くと、この資金運用を独断的に推し進めた責任者は、責任を追及されることもなく、死亡退職した際には、退職金も全額支給されたという。
私立大学は、私学助成の配分を受けている。その意味では、公的資金を使っているのであるから、巨額な損失を出すに至った経緯や原因については、科研費の不適切処理以上に重篤な公表が求められなければならないと言っても良かろう。
民主党の前代表の小沢氏は政治資金の不適切な処理に関わって強制的に起訴されている。5億円の出所や使途が裁判の争点になっている。国家財政では、国債発行の残高は100兆円に及ぶ。この巨額な負債は国会で審議・議決されているとはいえ、これらの審議・議決の結果責任は問われることはない。100兆円に比べれば、5億円は僅かであろう。
少し旧聞に属するが、経営破綻した日本振興銀行への銀行免許付与が不当だったとの第三者委員会の検証結果について、竹中平蔵元金融相の道義的責任が問題にされてはいるが、竹中平蔵氏の民事的責任が問われたことを聞かない。
国家とか法人とかの組織や機関が犯す過誤や失敗に対しては寛大であるだけでなく、問題にされないことが多いのは空恐ろしいことである。これが権力や組織の力の怖さなのであろうか。
とはいえ、蟷螂と斧のようなものであっても、権力の相対化は常に意識していなければならない課題である。



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