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憲法制定の経緯 [憲法問題]

少し間延びすることになるが、年明け早々以下の記事を目にした。
「第2次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ)の一員として日本国憲法の草案作成に携わり、男女平等などの条文を盛り込んだベアテ・シロタ・ゴードンさんが30日、ニューヨークで死去した。89歳だった。」(朝日新聞デジタル)(1月3日ヤフー所載)
そして関連記事として、2007年5月1日付けの東京新聞が生前のゴードン女史への記者・豊田洋一氏のインタビューが掲載されていて、改めて読むと憲法制定の経緯の一端が覗える。(このインタビューは二〇〇四年四月二十日、ニューヨーク・マンハッタンのベアテさんの自宅で行われました。)との注記がある。

一、二抜粋しておく。

ベアテ 集めてきたスカンディナビアや、ワイマール、ソ連の憲法には女性の基本的な権利だけでなく、社会福祉の権利もちゃんと書いてあったので、憲法にこれを入れたいと思いました。民法を書くのは、官僚的な日本男性ですから、憲法にちゃんと入れないと、民法にも入らないと思ったんです。民法を書く人が縮められないよう草案に詳しく書きました。
ベアテ 日本政府には「これを基本に日本の憲法をつくってください」と草案が渡されていました。一カ月後、日本政府代表者とGHQとの会議があり、私は通訳として呼ばれました。会議は午前十時から始まり、すぐに私たちの草案を議論しているんじゃないことが分かりました。日本側は全く違う憲法案をつくってきたのです。ですから、日本側の案を英訳したり、ケーディスの返事を日本語に訳したり、議論があっちこっちに飛んで進みません。そうしたら、(当時外相だった吉田茂元首相の側近)白洲次郎さんが、書類をテーブルに置いて、どこかに行ってしまいました。それは私たちの草案の日本語訳でした。ケーディスは、この草案をベースにしようと言い、それ以降、議論が少し楽になりました。

豊田 九条の戦争放棄規定は問題にならなかったのですか。

 ベアテ それはマッカーサーが「入れなければならない」と、最初から命令していたので、日本政府代表者との協議では全然、議論にならなかったと思います。ただ、ケーディスは亡くなる前、私に「九条の最初の草案には、侵略戦争だけでなく、自衛戦争もやってはいけないと書いてあったが、自分が消した」と言っていました。彼は、どの国でも自衛権はあると思っていたんです。戦争放棄条項はマッカーサーかホイットニーか、誰が書いたのかは分かりません。でもケーディスが自衛戦争の放棄を消したことは確かです。

ベアテ女史の短い返答の中で感じることは、一方的な価値観で事を進めようとしていないこと、価値の相対化の意識が根底にあり、民主主義の理念を意識して憲法を制定しようとしていることである。戦勝国として統治対象国の憲法制定という意識が殆ど感じられない。自主憲法制定を主張する論者達との決定的落差であろう。
仮に自主憲法制定論者が戦勝国側に立って勝国の憲法制定の任を担ったとして、これだけの理念と精神を盛り込んだ憲法を構想できるだろうか、と考えてみると、到底足下にも及ばないだろう。押しつけられた憲法だという単純な価値判断つまり偏見が先ずあって、自由とか平等とか民主主義とかの理念を原理的に追求しようとする根源的価値創設の意識が覗えないからである。
押しつけ憲法からの脱却がその動機なのかどうかは判然としないが、世論調査でも6割強ほどが改憲支持だという結果も出たりしている。中国や韓国との領土問題に端を発した改憲論であるなら、真に底の知れたことである。国家権力も國の政治を動かす一機能に過ぎないという平衡感覚を欠いた憲法を想定しているのではないかと懐疑する。
憲法第九条について、ベアテ女史は擁護する立場に立っていた。
原爆まで投下し、あれほど無差別に空爆をした米軍をして京都や奈良の古都を空襲から守らしめたのは、外ならぬ米国人の見識であった。その価値を体験的に知っていた有識者がいたからであろう。
現憲法は押しつけだからダメ、古都の保護保存は見識の結果であるとして頬被りする。
古都は守るに値する人類共通の文化遺産であるが、その文化を生んだ為政のシステムや為政者の狭窄は葬られるべきものとして現憲法が制定されたのであると考えるのが歴史の教訓に学ぶということであろう、と考える。

国歌斉唱時の不起立と処分 [憲法問題]

<大阪府の橋下徹知事は17日、入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考えを示した。

 府によると、同様の条例は全国でも例がないという。

 知事は報道陣に、「府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない」と指摘し、「繰り返し違反すれば、免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい」と述べた。>(読売新聞)
東京都は、不起立1回で戒告、2回で減給、3回で停職と処分が規定化され、免職規程を盛り込んだのは全国でも大阪府が最初だという。こうした公務員に対する厳しい規程を容認する風潮は広がっていて、不景気な世相を承けて身分が保証されている公務員への反発・妬みが背後にあるようである。この規程案に対しても、7割を越える人が賛成と答えているアンケートもある。そうして劣情といってもよい人々の意識を巧みに利用しつつ全体主義的囲い込みを企図するのは為政者の常套手段であるが、まんまと囲い込まれているのでないことを祈る。

「国歌を斉唱しないような教員は大阪府にはいらぬ」という発想の方が余程最も守らなければならぬ憲法に違反した思想営為でなかろうか。府民の中には、国歌斉唱に懐疑的な府民もいよう。大阪府という地域が抱えてきた諸問題の背後を考えても、意図するとしないとに拘わらず、橋下知事は「非府民思想」=「非国民思想」の土壌作りを狙ったものなのか、と思わざるを得ない所行である。こうした規律の厳格な基準制定と実施がリーダーシップだと考えているのであろうか。
なぜ国歌斉唱時に起立して同じようにみんなで国歌を歌う義務を人は背負わされるのであろうか。それこそ憲法の保障する思想信条の自由の問題であろう。確かに国歌は国家統合の一つのシンボルであろう。しかし、その国家は国民によって形成された組織体に過ぎない。
本当に国民は国家によって守られているのであろうか。日本人は国家のありがたさを知らなすぎるというような意見をしたり顔に述べる「識者」もいる。むしろ国民が国家を守っているのである。昭和天皇は雑草という草はないと仰せられたが、府民という民もいなければ、国民という民もいないのである。
第二次世界戦争で敗戦した関東軍が満州で敗走する時、背後の「国民」を放棄して、橋を爆破して逃げ延びたりした事例は枚挙にいとまがない。
歌わない自由を容認できない自由主義などは虚構の自由主義である。
自由平等博愛を享受している一人だと思われる大阪府知事が、自由平等博愛の圧殺者にならないことを願う。
国歌を歌わない教員がいることがそんなに目障りになることなのであろうか、不思議でならない。
そのうちに野球場やスポーツ競技場で国歌斉唱に起立しない人がいると、周囲から起立が強要される時がくるのであろうか。
少し拡散し、飛躍するが、福島の原発の放射能を一刻も早く除去することが国家が国民を守ることになるのである。福島県の問題だとしても、全国知事会の開催を求めて、橋下知事も為政者として放射能除去に力を貸すべきであると思われるが。
上の記述に関連して、次の記事を見て吃驚している。
村八分・魔女狩りの発想そのもので、橋下氏が知事になる前に、山口の未成年の殺人事件で弁護士会から批判をされたときの発想に繋がっているようだ。
そもそも、国歌斉唱時の起立と斉唱は教員の職務ではないだろう。国歌斉唱を職務命令とできるのかどうか。そして、それを職務規程違反で処分できるのであろうか。処分権の独裁的乱用と言ってよい。さすがに弁護士出身の知事だけあって、法律を盾にとることだけは心得ているが。
裏を返せば、強権的な統治をしないと行政の執行ができないいら立ちの表れが、八つ当たり的に教育を人質に取っているのかもしれない。また租税収入の伸びを確保できない大阪における企業活動の停滞がその「いらち」を増幅させているのかもしれないが、もちなれぬ権力という魔物に取り憑かれて魔物に踊らされているように思われる。
このような記事を独白的に記していると、非国民とのレッテルが貼られる時代がくるのかもしれない。国民性というのは改まれば、国民性でないということであれば、わが国民はこうした指導者を有り難がって崇め評価する時代に突入しつつあるのかもしれない。
教員を起立させる前に、超勤手当を支給する代わりに、僅か3%を上乗せしただけで、24時間勤務を強いるような教育行政のあり方を反省すべきであろう。
「心服」という言葉がある。形式的に起立さえして発声すらしなければ、橋下氏はその権力の発動の達成に自己満足するのであろうか。
昔、自分が制定した厳しい法律で自分が罰せられた権力者の故事がある。
橋下氏が府立高校の教員になることはなかろうが、職を退いて現在よりももっと自由を制限する時代が到来した時に、自由な発言が問われ罰せられるような時代が来ないことを切望しておこう。
また、<(橋下)知事は記者団に対し「公務員の一員である教員には、職務命令に関しての思想信条の自由は認めない」と強調した。>(共同通信)とある。 このような発想は、放射能問題で参与が首相や原子力安全院のその場限りの対応に抗議して辞任した東大教授の記者会見を「守秘義務違反」云々で脅迫したのと同じである。公務員である前に、日本国民なのである。だから公務員は憲法を遵守する宣誓をしているのである。そもそも「職務命令に関しての思想信条の自由」とはどういう意味なのであろうか。 思想信条の自由は良心に依存する場合が多い。職務命令の前には公務員は良心を失え、いな良心を持ってはならないというに等しい発想である。浪速は伝統的に自由を重ずる風潮の強い土地柄であったはずだが、大阪の代表者がこのような自由の圧殺者、良心の封じ込め者として振る舞い、このような形でしか情報発信能力を持たないのだとすると、大阪の地盤沈下の象徴なのかもしれない。已むぬるかな!

そうでないことを願うが、今回の東北大震災に伴う原発事故のような問題発生では、このような硬直した発想の指導者では現在と同じようにもたついた対応しかできないのではないかと推察している。
東海南海道の大地震発生で引き起こされるであろう原発の危機管理を考えておくべきであるのに、国歌斉唱時の起立のような些事を優先させているのであるから。
大阪府民を放射能から守るのは、日本の原発事故からだけではない。中国の原発が引き起こすであろう災厄、放射能汚染から府民をどう守るのか、そうしたことこそ最優先で考えなければならぬことだろう。

<参考>君が代不起立教員は「府民の批判を」…橋下知事

2011年 05月19日 09時50分
提供元:読売新聞

 入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない教員の処分条例を9月議会に提案する方針の橋下徹・大阪府知事は18日、起立しなかった教員の氏名や学校名の公表を条例に盛り込むことを検討すると明らかにした。
 記者会見で、「(起立を求めた)職務命令は民意に基づくもの。保護者は何回も違反する教員を知りたいはずで、府民の批判を受けるべきだ」と述べた。
 府教委は、懲戒処分で最も重い免職の場合だけ氏名を公表しており、これまで不起立で戒告処分した教諭7人の氏名や学校名は明らかにしていない。
 橋下知事はまた、「君が代不起立の問題だけでなく、職務命令違反全般の処分基準を作らないといけない」と述べ、教員だけでなく、府職員も含め、職務命令違反を処分条例の対象とする考えも示した。

政教分離の違憲判決と宗教法人設立の私立大学への国庫補助金 [憲法問題]

「北海道砂川市が市有地を神社に無償で使わせているのは憲法が定める政教分離に違反するなどとして、元中学教諭でクリスチャンの谷内栄さん(79)=同市=が菊谷勝利市長を相手取り、明け渡しを求めないことなどの違法確認を求めた2件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允=ひろのぶ=長官)は20日、1件について市の行為を違憲と判断した。政教分離訴訟で最高裁が違憲判断を示したのは、97年の「愛媛玉ぐし料訴訟」以来で2例目」(毎日新聞)
原告がクリスチャンであることに些かふーんという感想を抱く。
キリスト教系統の学校法人は大学を問わず数多く設立されている。勿論仏教の各宗派の設立している学校法人も数多くある。そして、これらの大学には一定の割合で国庫から補助金が出されている。特定の宗教団体の活動を援助していて、憲法に定める政教分離に背いていると言ってもよいだろう。
そもそも私学助成自体が憲法違反になる虞れが多いというのは、嘗て総理大臣を務めた竹下登の見解でもあった。
宗教法人設立以外の教育機関はさておいても、宗教法人設立の学校法人が憲法違反であることについて、この原告はどうして法的に問題にしないのか、不思議でならない。
民主党の予算の仕分け論議の時でもこの問題を提起すべきであった。もっとも私学助成という形で私学事業団に補助金が交付され、事業団が各大学に配分するという方式のようであるから、予算の査定段階で宗教法人設立の大学に交付されている金額を確認して減額すればよいのである。
言うでもなく、宗教法人を母体にした、少なくとも強い関わりを持つ政党に政党助成金を税金で支給するのも大いに問題があるが…
と同時に、原告の通う教会が固定資産税を払っているのかどうか。更に言えば、もうそろそろ宗教法人に対する非課税措置を止めるべき時が来ているのではなかろうか。

いずれにせよ、キリスト信者には、信仰の名の下に、人間は猿の進化したものではない、神の作り給うた存在であると科学的実証を否定する人も多いのであるから、そもそも憲法に抵触するかどうかを理性的に問うこと自体に大きな疑念を抱かざるを得ない。裁判の過程でこの原告にその問題を尋ねてから審理に入るべきであったろう。何故なら、法的事実を問題にする以上は、今日到達している科学的信憑性についてどのように判断しているかを質す必要があるからである。
ある意味では、習俗化していると言ってもよい一定の「歴史的事実」は社会が許容したことであって、政教分離の問題と言うほどのことでもないだろう。
一定の宗教的立場に立つ者の宗教問題を絡めた提訴はそれこそ政教分離の原則を損なっているともいえるのであって、真面目に取り上げた裁判官の論理の整合性に疑念を強く抱いた次第である。
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12月8日 [憲法問題]

けふは真珠湾を攻撃した日である。日が改まった。
NHKの特集番組旧満州からの引き揚げを見た者は何人いたろうか。彼の田母神氏や憲法改正論者や戦力増強を積極的に説く人やお国のためを吹聴する徒輩の論を聞きたい。
戦争に限らず、事を為して、負けることや失敗することもあることを念頭にいれない為政者や指導者は、真に指導者に値しない。
古代中国は幾多の戦争経験をもっている、だから孫子の兵法だけでなく、書物には軍事や戦争のことが記されている。日本でも戦国の武将は己の経験を記録に残している。
戦争が外交上の問題を解決する手段の一つであることは、論を待たない。しかし、「伐つも時(三ヶ月)をこえず、戦うも奔るを逐はず、誅するも服を填せず」というのは、数知れず戦った経験の言わしめていることである。
核兵器も持たないイラクを攻撃して数多くの人々の命を奪った張本人のアメリカ大統領がぬけぬけと退任を控えて間違った情報に従ったことを反省している、という。無責任な為政者の一典型であろう。反省をしているだけまだましだという評価もあるかもしれないが…

中山氏の論を支持して自民党の鴻池氏も日教組つぶせの論を正しいと公言している。労組をつぶすことが労働者の団結権の否定になることはすでに述べた。派遣労働者や期間労働者の問題を生み出した思想と同じなのである。
戦時中、軍の命令で各中学に特攻隊志願の学生を出すようにとのお達しがあった。各クラスから誰を選ぶか、その時教師が誰かを指名するのか、生徒が自ら名乗り挙げるのを待つのか。どんなやんちゃな生徒でも志願を名乗るものはいなかったという。それでも割り当てられた数だけの生徒は出さねばならぬ。
想像力を働かせば、指名することができる教師を養成しようとする準備をしているとしか思えないのが日教組敵視論者なのである。日教組の組織率は低迷している。その中で執拗に繰り返される反日教組キャンペーンの意図は白日の下に晒さなければならない。考えすぎだという人もいるだろう。こうしたことは考えすぎる方がいいのである。

ところで、田母神氏は論文の懸賞金は辞退したという。彼は退職金を辞退するのは、持論を否定することになると言って受け取った。退職金はそれまでの労働や勤労に対する賃金の後払いの性格もあって、持論に対して支払われる対価でもないから、辞退拒否の一面は理解できるが、自分の論文の懸賞金を辞退するとは!それこそ自説を否定することにならないのか。不可思議千万な論理矛盾である。こうしたことを平然とできるような手合いでないと戦場に平気で国民を駆り出せないのであろうし、また事後の責任も背負えないのであろう。底が知れたというべき今回の懸賞金辞退であった。堂々と受領してせめて福祉事業に寄付すればいいものを!時は正に歳末助け合い期間である。

戦前は国家権力が国民を騙して戦争をしかけて巨額の負債を国民に背負わせた。現在個人の金融資産は1500兆円ともいう。片や国家財政は800兆円に達する赤字を背負っている。騙された国民が国家を騙したというか為政者を信頼していないことを示す数値であろう。
そしてこの負債は次の世代が背負うのである。戦争をして付けを返そうとするのであろうか。戦争はもはや経済に活力を与えるものではないことは学習済みであるが。


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国歌斉唱時の起立と思想信条の自由 [憲法問題]

❶[塩谷立文部科学相は18日の閣議後会見で「国歌斉唱時に起立するのは国際的にも常識。それが理解されていないのなら、国として何らかの指導をする必要がある」と述べた。](ヤフーニュース)
❷[県教育委員会が、県立学校の卒業式・入学式で君が代斉唱時に起立しなかった教職員の氏名を収集している問題で、収集に反対する教職員計十八人が十七日、県に対し、過去に収集した個人情報の消去と、これまでの収集に対する慰謝料を支払うよう求める訴えを横浜地裁に起こした。](同上)
❸[現職の自衛隊幹部は「思想・信条の自由に踏み込みかねない」「個人の歴史観を監察の対象にするのはおかしい」と強く反発しており、議論を呼ぶのは必至だ。](同上)
上のように発言する自衛隊幹部は嘗て自衛隊内で反戦活動をした自衛官の思想信条を自由の問題として容認して擁護したのであろうか。
田母神氏も自己の思想信条の自由については、憲法を根拠にしている。一方で、その憲法を否定する発言をしている。都合のいいところだけ取り出して自己の正当性を根拠づけるために憲法を利用するのであるから、ご都合主義もいいところなのである。
彼は退職金を自主返納すると自分の主義主張が間違いであると認めることになると言って、返納を拒否しているが、戦争を指揮して、敗戦の責任を取らなかった嘗ての軍部の幹部と全く同じ発想である。返納することと自己の主義主張の問題とは関係ないのである。正直に退職金は今後の生活のために入用だと言えばいいものを。それにしても、こんな無責任な自衛官にかくも多額な退職金を支払うのは不合理である。
また、かれの見解や行為を支持するのが過半を超えるとは驚きである。殴られないと痛さを感じない想像力の欠如した人が多いということなのであろうか。
文部科学相の発言も権力の恣意である。国歌斉唱時に起立するかどうかは、常識の問題ではなく、思想信条の問題であるから、それに踏み込むのは、自衛隊幹部が「個人の歴史観を監察の対象にするのはおかしい」というのと全く同じことである。自衛隊幹部と国歌斉唱時に起立しなかった教員とは断固として憲法の思想信条の自由を守るために共闘すべきであろう。
横浜の教職員が個人情報の収集に抗議して記録を抹殺することを求めるのは理解できるが、慰謝料請求とは恐れ入る。思想信条の自由は天から与えられるものではない。また憲法に明記されているから、保証されているものでもない。戦い勝ち取るものである。
国旗と国歌に飾られてお国のためと駆り出され、<名誉の戦死>をした時にこそ、犬死にであったことへの慰謝料として国家賠償を請求すべきなのではなかろうか。駆り出された当人は請求権を持つことができないが。
己がじし憲法を解釈して自己の立場を擁護し、利益を図ることができる憲法を我々が持ちえている幸運を何人も肝に銘ずべきであろう。
現憲法の基本的精神がどこにあって、その淵源は何に基づいているのか。恐らく田母神氏のような憲法改正論者や敗戦を終戦と塗り替え、侵略戦争をアジア救済の戦争と強弁する徒輩の描く憲法の理念がどんなものに支えられるかは想定するだに悪寒が走るのではないだろうか。

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蟹工船と日教組を潰せ発言 [憲法問題]

中山国土交通相が辞任した。それでも日教組は潰せと言い放ちそれを自己の信条であるという。組合の思想に反対すると言うのであれば、言論・思想・信条の自由の枠の中でのことであり、大いに議論すればいいことである。
組合を潰すというのは労働者の団結権を否定することである。憲法違反の発言であり、国務大臣就任時の憲法遵守の宣誓にも明らかに違背する。国務大臣としての本分に悖る発言である。

最近小林多喜二の蟹工船が読まれ、漫画にもなって一種の社会現象として取り上げられている。派遣労働書や安定的職場から取り残された労働者の共感する所となって、労働者団結の意義が再認識される契機を与えているのだという。
戦後の労働運動高揚期に蟹工船は映画化もされ、迫力のある映像にこのような現実は克服されねばならないと青年の心を動かした。また、小林多喜二が獄中で拷問に処せられて死亡したと推測せしめる写真を見たことも思い出す。

嘗て日教組が強い力を持っていたのは、戦争によってもたらされた数々の悲惨な現実を背負っていたからである。今や日教組の組織率も低迷していて、組織率の高い府県はご用組合化しているのが実情であろう。
大分の日教組の様子がどのようであったのかは全く知らないが、中山氏の論に従えば、教員試験不正合格の温床は日教組の力によるのであって、権力と癒着した組合の実態を示しているに他ならず、中山氏が談合二社から政治献金を受けていたと指摘されているのと同じ類のことである。近親憎悪ということがある。大分の日教組の体質が同体質の中山氏の嫌うところとなっているのかもしれない。

嘗ての日教組は文部省と激しく対立して表面上は不倶戴天の敵の間柄であった。今や日教組には文科省と戦うだけの力もないだろう。にもかかわらず、日教組は日本のガンだという基本認識は、プリンスホテルが日教組の教研集会を急遽キャンセルした意識や力と殆ど距離はない。

戦後の日教組共通の標語は「戦場に教え子を再び送るな!」ということであった。今や「せんじょう」と入力すると、「洗浄」に先ず変換される。勿論、日教組が力を誇っていた時代には、ワープロもPCもなかった。

蟹工船と相前後して真空地帯という映画もあった。軍隊の苛酷な状況が舞台となっていた。
学徒出陣で徴兵され帰還した人から戦場や軍隊の話をよく聞かされた。徴兵検査にあたっては、X線写真撮影の前にタバコを吸って肺に異常があるようにみせようとしたとか。中学生にとっては恐ろしい世界のことである。再軍備論が盛んになり、自衛隊が設立されて、そのうちに徴兵制が敷かれるのではないかと危惧したりして、体力はつけまいと狡猾な考えを巡らせたりしつつ、野球には熱中したものである。
憲法改正、特に9条が問題になって、改憲論を支持する青年も多いという。國のために戦う大義名分があれば、立派なことだと思う。しかし、國のためという言葉ほどいかがわしい言葉はない。黒澤明の七人の侍はそのいかがわしさを反転した逆照射である。
軍隊や戦場は異常な世界である。自衛隊という半分違憲とも言える法的状態のなかでも、我が国の軍事予算はGDPの1%を限度とするが、世界の中で決して低くはない。憲法が改正されて、自衛権が憲法上保証されて軍隊の統帥権や軍事上の規定が明文化されるとどうなるのか。逞しい推理を働かせなければならない。
なるほど、軍事力は外交上の問題を解決する手段の一つである。しかし、戦場に駆り出されるのはまず青年である。老獪な年寄りの改憲論議やそのお先棒担ぎのもっともらしい議論にうかうかと乗らないことである。

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