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原巨人監督と横浜中畑監督の談笑 [プロ野球]

昨日は雨で流れたが、巨人の原監督とDeNA中畑監督が和やかに談笑している写真を見て、奇異な印象を抱いた。かつて巨人で僚友だったとしても今や敵として一軍を率いている両人が試合前とはいえ談笑しているとはどういうことなのであろうか。
まして圧倒的な戦力を有していて独走間違いなしと大方の評論家が優勝候補の最右翼として推されているのに、早くも5度の完封負けを含む7つの負け越しをして最下位に低迷している巨人原監督のこの暢気な様子には巨人ファンならずとも大いに疑問を抱いた。原監督には「辞めろ」という罵声まで浴びせられたりしているという記事も見かけた。
中畑監督も巨人との絶縁を宣言し、打倒巨人を標榜しているのであり、最下位争いをしている事態は深刻なはずである。
両者ともまだシーズン当初なのでのんびり構えているのかもしれないが、7つの借金を背負った巨人が優勝したことはないという過去のデータもある。早くも優勝を諦めたのであろうか、疑われるほど、その発言もまるで一軍を率いる将のものではない。評論家のような発言が目立つ。
投手起用といい、選手を十分把握し切れていないのではないかと思う点が見受けられる。まだ十分本調子に戻っていない久保投手を投入して結局再調整を余儀なくさせたりしているのはそのいい例である。セカンドの選手起用にも打線のことも含めてキャンプで何をしていたのかという疑念を抱くほどである。
原監督は監督になった年に優勝したことがマイナスになっているようにも思われる。
この両人の談笑写真に両軍の低迷振りの象徴を垣間見たように思えた。

隠れたるより見わるるは莫し:木崎被告の死刑判決 [司法問題]

裁判員裁判で使命を果たした裁判員も悩みに悩んだ結論だろうと思う。
物的証拠はなく、自白や自供もなく、犯意を否定している被告を状況証拠だけに依拠して判決を出すのは法の世界では専門家でも悩むことである。疑わしきは罰せずという大原則が、法運用の古来からの原則であるからである。
和歌山のヒ素入りカレー事件も同じような案件であった。殺意はなかったであろうが、水俣病の原因究明の時にも資本や政治が介在したので疫学的証拠だけで有罪にはならず多年の時間を要した。
今回の事案は、特異な個人の特異な事件である。被告本人にはどこか人を惹きつける何かがあるという説もあるのだから、結婚願望や出会い欠乏の立場に立つ者が罠に陥ったのだろうと推察できるだけである。だから、被告人が即時上告したのも当然の帰結である。
逐一この事件の顛末を追跡したり、判決文を綿密に読んでいないので直観に頼るだけだが、古人が発している「微なるより顕かなるは莫く、隠れたるより見わるるは莫し」という言葉を想起させた。この言葉は法的問題に関わって発せられたものではない。
被告本人だけが知っていることである。その本人が否定しているとき、余人がその内面に立ち入って法的対応をせねばならぬのだから、実定法の範疇をある意味では超えた問題である。自然法に従った対応というか適応が求められたというか、意識せざるを得なかったという法哲学の根幹に関わる事案だったと言える。法哲学の根幹に関わるということは倫理や宗教観の問題がその底に横たわっているということである。
死刑判決もさることながら、終身刑の審決という選択の方が重い判決のようにも思ったりしている。

四月五日付け日経の春秋のコメント [ジャーナリズム]

<調べたら15年ほども前からたたかれている。なのいいまだに氾濫するのが、スポーツ選手が猫も杓子も口にする「応援よろしくお願いします」の常套句である。心地よく興奮しても、その興奮を無理やりさます副作用があの一言にある。▼観戦する側に響く何ものかがあれば頼まれなくたって応援するんだし、個性が売りのアスリートたるもの「一つ覚え」に頼ってはいけない。>
春秋子は、プロ野球試合終了後のヒーローインタビューを聞いたことがあるのだろうか。それこそ、聞き手のアナウンサーの選手への質問は常套句に充ち満ちている。「どんな思いで臨みましたか」「今後の抱負を聞かせて下さい」などなど、選手がすでに答えていることを繰り返し言わせようとしたり、聞き手の紋切り型こそが選手の返答能力を削いでいるのである。聞き手の記者が未熟で訓練もされていないのに、スポーツ選手の側だけに成熟した答えを求めているのは不公平であろう。
さすがに成熟した一流選手はコメントも聞かせる。その代表がイチローである。特に川崎選手に関わる一連のコメントは秀抜である。春秋子が褒めている水泳の北島選手の吐露などは絶叫に過ぎない。春秋子の文章よりは一段と読ませる。春秋子は、日経の記者として認められてこのコラムを執筆しているそれ相応の文章家であり見識の持ち主なのだろうから、選手をあげつらう前に、自社の若手記者の言語教育にエネルギーを注いだ方がいいように思う。苦言を呈したくなる春秋であった。
附言:春秋子はこのコラムの春秋の由来や淵源をもちろん承知されているのだろうと思うが…

野田首相の言葉遣い [政治]

大飯原発の再稼働に関連して、関係閣僚が会合をもち、一定の結論を導くことになったことに関して、野田首相は昨日「判断し決めさせて頂く」というような発言をしていたのをテレビで聞いて奇異に感じた。
この「させて頂く」という表現は謙譲表現なのだろうが、他の力によってそう決めるのだというようにも理解できる。最高権力者の首相として「させて頂く」というのは、責任回避のようにも受け取れるのである。巧みな言葉遣いと言えば、言えるかもしれないが、京都府や滋賀県知事、大阪市長が原発再稼働に不安と疑念を示している中で、「させて頂く」というのは、基本的なデータに基づく安全性を根拠にしているというより、自己の積極的なエネルギー政策に関わる全体計画の見通しも示さずにミクロな観点から目に見えない何か産業界の意図に沿ってことを運ぼうとする意図が隠れているような意識が読み取れるのである。いかにも謙虚な言葉を弄しつつ、国民の生命の安全や不安に配慮するでもなく、権力の行使に踏み切ろうとしていることの表れが見て取れる。明確に「判断する」とかせめて「判断したい」というのが最高権力者の言葉遣いであろう。
一方、消費税増税については、不退転の決意で実現を目指すと明確に発言している。党内の異論、連立政権与党の党首の意見にも耳を貸さず、自らの政治生命を賭すとまで言っている。自民党や公明党などの野党は解散をして国民の真意を問うようにと言っているが、解散して総選挙で国民の真意を聞こうとする意思はなさそうである。増税政策こそは、政府維持のためのコストとして国民に負担して頂くというのが筋であろう。権力者が不退転の決意で増税すると強調するのは説明不足も甚だしい。
過大な国債発行は政府国民の合作であったのだから、それを克服するためには国民の協力を求めるとともに政府の杜撰な財政運営や支出の厳格さを正すことが同時に為されなければならないはずであろうから、その意味では権力基盤の安定のために国民の真意を問うことが重要であろうと思うのである。
首相の言葉遣いに、本末転倒の意識が見て取れて仕方がない。

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