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奨学金返還滞納問題 [教育]

貸与された奨学金の返還滞納の累計額が876億円に垂んとすると言う。大学を卒業しても定職に就けない大卒者や非正規雇用で収入を得ている大卒者の増加が返還滞納の根本的原因であるというのが定説である。
このまま返還が進まないと爾後の育英事業の維持に支障をもたらすことは必至だと言われる。支援機構は返還を求めて法的手段も辞さないとの強硬手段も取り出しているという。また滞納者はブラックリストに登録され、カード利用もままならなくなる事例も生じているという。社会的信用が失われることになる。貸与額の多い大卒者になると500万円内外の返済義務を抱えた上に社会的信用にも欠陥が生じ、かつ定職がないとなれば絶望しか残らないことになる。借り手の自己責任をあげつらうことはできない。
大学の授業料は文系と理系の相異や国公立か私学かでかなりの差があるが、少ない大学でも年間に換算すると100万円は越えている。四年間の学費となれば、500万円を借りるのも無理からぬことである。500万円の借り手が、20年かけて返済するとして、一年で25万円、一月だと2万円強の返済が生ずることになる。
現在では、同世代のほぼ二人に一人が大学に進学する時代である。さすれば、奨学金に負う学生も多くなるのは必然である。年功序列社会や終身雇用制度が崩れつつある広い意味での就職難の時代に生きる若者にとっては奨学金の返還問題は人生設計に大きな陰を落とすことになる。
このように苦労して支払っている授業料を資産運用に走って巨額な損失を出している学校法人も少なくない。恐らく学校法人の資産運用失敗による損失額の合計は、奨学金の滞納額876億円に匹敵するのではないかと推測する。株価上昇や円安に伴い損失額も減少しているかもしれないが、一時期一学校法人で2千億円の含み損を抱えている学校法人もあったのだから、学校法人が蒙った資産運用の損失額の合計は、奨学金の滞納額を遙かに超えていると推定するのが正しいかもしれない。
借りた奨学金を踏み倒す不貞な大卒者は一割もいないだろう。殆どは返済したくともできないというのが実情だと言われる。城繁幸氏ではないが、若者を殺している張本人が誰であるか明白であろう。
文教予算に占める私学助成は2000億円を限度にして増えていない。世界的に見ても低い水準であって、先進国の中では低い方から数えた方が早いのも歴然たる事実である。
奨学金返還の窓口相談も返済を求める方向よりも返済軽減のプランを立てるために何をすべきかの窓口相談にすべきであろう。その中から返済義務者救済の具体的プランができ、予算措置も変わってくるのではなかろうか。
あるいは、10年間返済を済ませた人は、子育て年代に入るのだから、返済を免除するとかの制度的改変を加えることも重要であろう。改められるようだが、一律な教科書無償制度よりは実質的であろう。

桜宮高校の体罰容認とドラフト「逆指名」容認の共通点 [教育]

大阪市立桜宮高校は公立高校ではバスケットボール部の強豪校だという。体罰を恣にして指導してきた部長は18年間異動することなくこの高校に勤務している。長くても通常10年を限度として教員は異動する。異例な人事である。恐らくバスケ部の強化に欠かせない人材として特別な配慮がなされていたのだろう。強豪校だということで生徒(志願者)を集め、有名校にしているのは外ならぬ自分たちであるとの、よく言えば自負が、悪く言えば傲慢さが体罰をまかり通らせたのだろうと思う。そもそも運動部が強いところは指導者の鉄拳制裁が横行している場合が多い。現在も横行している思想的背景には、根性論が根底にあるのだろう。殴打は選手を進歩成長させるための手段であるという、竹槍でB29に立ち向かうような精神論である。ルールを尊重することが求められる中で、社会的な礼法が無視されているのである。それは勝てば、というより結果が全てであるという考え方が根底にあるからだろう。
そうしたスポーツ界の傲岸さは、昨年のドラフトで東海大の菅野投手を指名した日ハムに対する祖父の原氏の横柄さにも見られた。彼は高校球界ではボス的存在として一目置かれているらしいが、己がルールだと勘違いしていて、社会的ルールや業界の決まりなどを理解しない。それは東海大学野球部横井監督にも伝染していたのである。殴打という物理的暴力は用いてはいないが、社会的約束事を無視しようした暴挙の一種に違いないのである。スポーツ界、だけではないのだろうが、殴打をすればうまく事が成就すると考える非理性的なことが教育の世界で日常化していたのである。教育という営みの重要な一つは理性の錬磨と追求であるから、自らの指導方法が明らかにそれに背反する行為であることが認識されていなかったと言わざるをえない。事態が明らかになった今でも彼の指導を容認する見解が相半ばするとか。彼に厳しい鉄拳制裁が許されるとしても、生徒の個性を把握してなされるべきことである。仮にも自ら命を絶つような生徒の性格を根性無し!という偏見が根底にあればそれは指導でも何でもない。体罰が上達を生むなら誰も努力はしない。体罰が努力の根源だというのも歪んだ暴力主義にすぎない。
叩かれ殴られて進歩するならば、この部長の人間性を高めるために、校長なり教育委員長なり市長なりが平手打ちを数十発食らわせ見せることである。恐らく彼の指導力が飛躍的に進歩するならば、体罰にも一理あるということになろう。この部長は、体罰を通じて精神力を高めると考えているのであるから、それを実証するために橋下市長にでも平手では痛いであろうから、鞭ででも用いて叩いて貰うことであろう。暴力を以て暴力に対抗するのは如何にも仁の道つまり正当な道から外れた外道であるが、目には目を歯には歯をという代償行為と考えれば少しは道理にかなうかもしれない。
オリンピックを招致しようとしている中でこうしたことが生起しているということは、スポーツに関わる人々全てが、薬物を用いて選手強化をしようとしているのと五十歩百歩だという認識を新たにすべきであろう。

学校法人の無残な経営 [教育]

南山大学が、デリバティブ取引を解約して、230億円弱の損失を確定したという。このうち160億円は昨年に解約して損失処理を確定していて、残余の契約も解約したという。前年度までに清算しておれば、一億や二億円の損失がなくてもよかったのではないかと推察する。恐らく、早い段階で損切りせずに、持ち直すと楽観視して損失を拡大させたのだろう。学生援助や教職員の待遇の問題になれば、十円単位でケチるのが常であるのに、損失が巨額になれば、一億や二億の金銭に麻痺するのかもしれないが、愚かしいことである。
東海地区の大学では、愛知大学が120億円ほどの損失を出している。両大学とも東海地区では私学の雄を誇っているが、玄人でも失敗する危険な商品に手を出した責任は重大である。
全国の学校法人が巨額の金融資産の損失を招いている中で、愛知大学の理事長が、背任で告発されたと報ぜられている。大学の理事長が背任で告発されたのは最初だとか。裁判の行方も注視しなければならないが、起訴されていないとはいえ、告発された理事長が学長職に留まることができるのかどうか、これまたこの大学の学校運営のあり方が問われるだろう。
聞くところによると、この大学の前理事長(学長)が健康上の理由で辞任して、死亡した時に、退職金が規程に従って支払われたという。この前理事長は経営担当の副学長在任中及び理事長在任中にデリバティブ取引を独断で始めた張本人だという。その後任者である現理事長も副学長在任中に積極的にデリバティブ取引を主導して、損失を肥大化させた背任で告発されたと記事は伝えている。しかも内部資料を精査する過程でその事実が明らかになって問題提起されたのに、明確な対応や説明がなされていないために、教授会でも指弾の決議がされたりしているという。一地方の私立大学の経営問題であるが、教育の面では、堅実で着実な大学との評価も得ていた大学であっただけに、その成り行きが注目される所である。


派遣教員問題 [教育]

先日のNHKのクローズアップ現代で高校教育の現場で派遣教員が盛行している実態が取り上げられていた。同じ非常勤講師でも、高校側が面接して採否に責任を持つのに比べて、派遣教員の場合は、人材の良否は派遣業者の責任に委ねられている。しかも、待遇面でも派遣教員の方が落ちるという。派遣業者が利益を得るのだから当然であろう。
その中で紹介されていた事例では、所謂進学クラスには派遣教員は配当させることが殆どない。教育効果をあげるために専任教員に授業を担当させているのだとか。経営の効率化ということで派遣教員を利用しているであろうが、進学クラスに当たらない生徒は派遣教員が授業を担当するというのは、平等に教育を受ける権利を剥奪していることになろう。経営の視点で派遣教員を利活用しているのであれば、当然生徒の授業料負担は軽減させるように父兄は問題提起すべきであろう。学校が経営の合理性を考えるなら、父兄や生徒も教育の質に見合う授業料しか出さなくてよいはずである。合理的根拠を学校自体が示しているのだから。
私立の高校では、進学率を上げるために特別なクラスを作って、そのクラスの生徒の授業料を減免したり、場合によっては、奨学金まで支給するという。従って、優秀な生徒には交通費と受験料を学校が負担して、有力大学を何校も受験させて、合格率の実績をあげる方便をとっていると聞く。甲子園に出るために優秀な選手を特待生で集めて学校の名を上げようとするのと同じである。
思うに、生徒が教師に求めている最も大切なことは、依怙贔屓をしない、平等に一人の人格として教師が接してくれることである。卒業後でも、分け隔てなく接してくれた教師を慕っているということを見聞きして知っている。
入学時点で、進学クラスと通常クラスの区別が存することを知って、入学したとしても、教育の質の点で差をつけることは機会均等や公平さの原則と理念に背くことになるのだから、当然質に見合った対価つまり授業料を支払えばよいということになろう。
教育産業という言葉が使われるが、学校法人は税法上の特典も与えられているのだから、利益追求だけに目が向いているのは教育機関としての重要な社会的責任を果たしていないことになるだろう。

田中文科相の大学設置不認可 [教育]

大学設置・学校法人審議会で設置が容認された三大学、秋田公立美術大学、札幌医療保健大学、岡崎女子大の設置認可を「大学の数が多すぎ、教育の質の低下」を理由にして、大臣の権限で認可しなかったことが物議を醸している。政治の教育に対する介入、暴挙だという発言まで飛び出したり、愛知県の大村知事は権限の乱用を越えた行為だと相当興奮して批判をしていた。
新聞などでも、不認可の理由を説明すべきだという論調もある。
既に設立されている私立大学の半分以下で定員割れしているのが現状である。ここ十年来で設置認可された大学が定員を確保しているかどうかの検証がなされるべきであろう。設立認可を申請する場合には、学生確保の目処や成就を示すことになっているという。卒業後の進路の確保も謳われることになっているとか。卒業生がどのような分野で活躍するか、その受け皿があるかいなか、ということも求められていると聞く。
設置審議会が設立後の点検を設置趣意書に従ってやっているかどうか。法科大学院の場合でも計画通りに学生が確保できずに改善が求められている法務研究科も多い。
札幌医療保健大学の場合は知らないが、秋田公立美術大学にせよ、岡崎女子大にせよ、短大の四大化を目指しているのであって、短大としての使命を終えた教育機関を四年制大学に移行して、命脈を保とうとしているだけで、受験生確保は覚束ないであろうと推察される。初年度は入学定員を確保できても、完成年度の四年間で定員割れして四苦八苦している大学はいくらもある。でなければ、私立大学の半数が定員割れという事態をまねいたりしないだろう。
政治の教育への介入というのも奇妙な言い分である。知事が大学の設置不認可を問題にする方が余程教育への介入のように思われる。愛知県にせよ、秋田市にせよ、大学を設置していて、その設置責任者は知事であり市長である。最終的な設置の認可権は文科相が掌握しているが、大学が学生定員を満たしていない時には、当初予算を組んでいるのだから、定員を充足するまで追加合格をせよ、と命ずると聞いたこともある。
また、認可申請に当たっては政治力を利用してお願いという圧力をかけることもないわけではないだろう。大村知事の発言はそうした政治的介入であり、圧力であるとも言える。
田中文科相が不認可にした理由を明示する前に、大学審議会に提出された各大学の設立趣意書を公開した方が今後の教育行政を進めていく上で有意義かもしれないと思う。
秋田公立美術大学は公立大学だから安心だという固定観念を打破する意図が田中大臣にもあったのかもしれないが、大阪では市立大学と府立大学の統合が検討されたり、地方の公立大学は地方財政の悪化を受けて運営に苦慮しているのが実態である。
今回の不認可騒ぎは、既定路線、前例を無視し打破した田中大臣の手続きの異常さに問題が集中しているようだが、だからこそ本質を大臣は突いているとも言える。

追記:不認可の女子大理事長(岡崎女子短期大学学長)は「地元で4年制大学の開学を待っている学生はいる。新たに教員12人の採用も内定していた。学園にとっても受験生にとっても損害は計り知れない」といい、「(設置予定の子ども教育学部のような)保育士を養成する大学は、地域で必要とされている」と言う。
この発言もある意味では不見識であろう。「受験生にとっても損害は計り知れない」というのは、受験すれば、全員合格することが前提になっていて、選抜するだけの志願者がいないかもしれない、という不安を言わずながらに語っているのではなかろうか。短大として、47年間に「18,614人の教員と保育士を送り出してきた実績」を誇っているのであるから、四年制大学に移行することもなかったかもしれない。多くの伝統のある女子大が男女共学へと制度改変している時に、女子大を敢えて設置する趣意も測りかねる。男子を排除するのは、受験生確保の点でもマイナスになるのではなかろうか、といらざる心配をしたくなる。
追記2:結局は三大学とも認可した。認可の通知は文部官僚がしていたが、大臣自身が足を運ぶべきだったろう。また、これらの大学の志願状況を完成年度まで追跡するのがジャーナリストではないかと思う。

早大教授が文献盗用 [教育]

<早稲田大が文部科学省の委託を受けてまとめた調査研究報告書に、他の文献からの盗用が複数見つかったことが6日、同大への取材で分かった。研究チームの代表を務めた松居辰則人間科学学術院教授は盗用を認めており、同大は処分を検討している。同大によると、報告書は「社会人の大学院教育の実態把握に関する調査研究」で、2010年春に文科省に提出された。昨秋に盗用の疑いがあると学内から指摘があった。>(共同通信)
盗用文献が具体的でないので、軽々に言えない点があるが、これは恐らく早稲田大学内部での教員間の色んなしがらみのなかでなされた内部告発によるものであろう。
恐らく文科省からの委託研究だから相当な委託研究費が予算化されていただろうし、報告期限の期日も厳格であったはずだから、組織の仕事であれば、若干ルーズなメンバーもいて、盗用という非常手段に訴えたのかもしれない。あるいは、文科省のチェックはそう厳しくないと考えたのかもしれない。そうし背景があって、内部告発に及んだのだろうと推察する。
問題は、天下の早稲田大学だからこのように大きく取り上げられたと考えるか、どうかと言うことである。他の余り著名でもない私立大学の盗用問題だったら、ここまで報道されるかどうかと言うことである。
ここ十数年ほど前から、早稲田も教育研究の活性化ということで、外部のスタッフを採用していると聞く。それでも昔から、学生一流、施設二流、教員三流という総体的評価を覆すほどにはほど遠いとも言われる。そのことがこうした文献盗用に結ぶついているのかもしれない。日暮れて道遠しということであろうか。

柔道の必修化 [教育]

来年度から、中学や高校で体育の教化で柔道競技を必修化するカリキュラム改革が実現する。今までにも部活等で柔道の事故は多発していて、人命に及ぶ事例も数多い中での必修化である。そのため各学校では教育指導に悩んでいるとのことである。
フランスの柔道人口は日本を遙かに凌ぐほどであるが、人命に関わる事故は皆無だとか。それは国家による柔道の指導者の資格認定がなされていることによることが大きいらしい。
日本では、柔道を専門にしない体育教師が指導するのであるから、不安な事態も憂慮されているし、指導にあたる教師自身が不安を抱いているとのことである。
柔道をきちんと指導できる人材を育てることもしないで、必修化するという場当たり的な文部行政の推進役をになっているのは、恐らく一部の柔道関係者と柔道着やその他の関連製品を売り込む業者の強い慫慂があったからだろうと推測している。
大学で体育を必修単位から自由化する動きがあった時に、体育の大学教員の元締めから各大学の教授会で反対せよ!との指令が出たという。体育の教員の就職口が失われることを危惧したからであることは明白である。教育の問題よりも自らの既得権益を守ろうとすることを優先させたのである。
今回の必修化がどの筋の働きかけなのかは分からないが、柔道界からの要請であったとすれば、短気なことであろう。むしろ裾野を広げるために指導者養成を要望して必修化を求めた方がよかったのではないかと思う。せめて、当面は数校を兼任する形で専門に柔道を指導できる教員を配置すべきであろうと思う。このままでは、事故の多発が心配される。可哀想なのは子供達である。少子化の中で子供を大切にしようとしない施策がまた行われることになるのであろう。

学位の取り消し [教育]

「東京大学は9日、学位論文などで他の研究者の論文を盗用していたとして社会科学研究所の安藤理(さとる)助教(33)の博士学位を取り消すと発表した。
 同大で博士学位が剥奪されるのは、昨年3月に論文盗用が発覚したトルコ人助教に続き2人目。安藤助教は「基礎的なマナーが欠如していた」などとして盗用を認めており、同大は今後、処分も検討する。」(読売新聞)
 この種の事例を見聞きするたびに不思議に思うことがある。
学位審査のためには、この場合、東大の社会科学研究所の教授が中心になって学位審査委員会などの組織が作られているはずである。審査の予備段階の委員会を作っている所もあると聞く。
学位申請がなされたら、無条件に審査委員会を作ったとしても、論文の審査がなされて、学位授与に値するとの審査報告が教授会に報告され、最終的にそこで承認され、更に大学の評議会相当の機関に報告され、そこで最終的に承認され、文科省に報告され、官報に記載されるのがおおよその道筋であるはずだ。細部では多少の違いはあるだろうが、どこの研究機関もそうした手順を踏んで審査が行われているはずである。
学位審査委員会は、その分野の専門家が中心になり、周辺領域の研究者も加わって構成されているはずである。通常は構成員は奇数の人員で構成されるはずで、それは学部の卒業論文審査でも同じであろう。
学部の卒業論文審査でも、盗用が見つかると、論文は不合格になる。論文指導に当たっては、学生に対して、盗用だけはするな、引用するときには出典なり、出所を明記することを口酸っぱくして言うのが常であるからだと聞いている。にもかかわらず、分からないと思っているのか、苦し紛れに盗用して不合格になり、卒業ができなくなって、内定していた就職もご破算になるという事例が幾つもあることを聞いている。
博士号の取得は、今日では研究者として独立できる一つの証であるという位置づけになっていて、かつての博士号とは内実が変質していて、博士号の取得者も増えている。むしろ博士課程を擁していて学位を出していない研究機関に対しては、厳しい評価が下されるほどである。
このようなことを考えると、外部からの指摘が為される前に、審査対象の論文の盗用一つ見破れなかったのであるから、東大はむしろ学位審査機関の杜撰さと怠慢をこそ明らかにして、謝罪すべきであったのではなかろうか。学位審査の権威失墜をいや増しにしているとも言えよう。大学院大学が大手を揮うようになって却って学位審査が安易になっているのだろうか。文部行政とも深い関わりがあるのだろうが。
こうしたことは、数少ない事例の一つなのであろうが、社会科学や文学系の学位は、少なくともアジアでは日本の学位に権威があると言われてきた。だから、権威を失わないために学位の取り消しを実名まであげて公表したのであろうが、逆の結果を招いているとしか思えない。

解釈と鑑賞 [教育]

国文学の研究分野で七十五年の歴史と伝統を持つ雑誌「国文学 解釈と鑑賞」が通巻965号で休刊されることが過日報道せられた。出版元のぎょうせい出版事業部は、「購読数の減少で、雑誌としての採算が取れないため、このたび休刊が決まりました。国文学専門の人に多く読まれ、ファンも多かったのですが」と話した。
文学部には国文学学科とか専攻とか日本語日本文学専攻を設置している大学は多い。中には文学部と名乗るが国文学だけしかない大学も存する。そうした中、国文学を専攻する学生も減少傾向にあると聞く。専攻しても、古典文学は避けて、専ら現代文学を学ぶ学生が多い。読者数が減少するのも時代の趨勢なのであろう。
一般に、解釈というと古典文学や文学の世界のことのように思われることが多い。特に訓詁注釈の学問を独創性の観点から軽く見る傾向が強い。強い時期があった。特に古典文学や古典の解釈を軽く見るというか、重んじない場合が多い。きちんとした解釈の方法や思考の訓練が欠けているからないのではないかと思うのである。
そもそも解釈とは、解釈されるべき対象すなわち基準や基本になる文章や言葉との関係の中で成立するものである。文章や言葉を読み解く行為を解釈と称する。読み解き方は多様である。現象や事象は一つしかないにも関わらず解釈は多様であるとは、一つだと考えている現象や事象が実は複雑な複合的現象や事象を内包しているということであって、その反映が多様な解釈を許すことになる。
仏教にせよ、キリスト教にせよ、釈迦やイエスキリストの教えの解釈の相異から多数の宗派が生じているのなどは解釈の問題の顕著な事例であろう。
文学の世界に限らず、法律の世界も、詮ずると、憲法を理念として成立している法文や条文の解釈の問題に帰着する場合が多い。憲法ついても、条文をめぐって多様な解釈がなされているのは周知のことである。
経済の分野でも、米国のFRBのグリーンスパーン元議長やバーナンキ議長の発言、日銀総裁の片言隻句が解釈の対象になって市場が揺れることが多い。FRB議長の発言を専門に追究しているエコノミストもいて、TVの経済番組などに登場して事細かな分析解釈を披露しているのを聞くことが多くなっている。
一国の宰相や大統領の発言も同じである。
昔から理屈と膏薬はどこにでも付く、と言われてきた。これは全てのことが解釈の対象になっているということを平たく言っていることなのである。
解釈のためには、あらゆる知識や経験を総動員することが求められる。解釈のための準備は、常に怠ってはならないのである。
国文学を対象とした雑誌とはいえ、解釈と鑑賞という雑誌が休刊することの象徴することは軽いことでないのかもしれない。つまり、解釈という営みが薄く弱くなって、解釈するための訓練が貧弱になっていることの反映なのかもしれないのである。教育の現場では、解釈を軽く扱うのではなく、解釈の意味をきちんと教えることが大切である。

twitterでの自転車飲酒運転の告白と処分 [教育]

福岡大(福岡市)は26日、インターネット上に自転車を飲酒運転したことについて書き込んだ商学部3年の男子学生(20)を3か月の停学処分とした。

 大学側は処分理由を「大学の名誉を傷つける不適切な行為」と説明している。

 大学によると、学生は7月9日未明、アルバイトの仲間と一緒にビールを飲み、自転車で福岡市内の自宅に帰宅。午前3時頃、簡易投稿サイト、ツイッターに自転車とは記さず「帰宅。バイト飲みやった。飲酒運転は久しぶりでハラハラした」と書き込んだ。自転車には20~30分乗ったという。その後、書き込みを見た人から大学に、「不謹慎だ」「学生への指導をしっかりすべきだ」といったメールや電話が計18件寄せられた。大学側が学生に事情を聞いたところ、飲酒運転を認めた。

 学生は「飲酒して気分が高揚していた。こんな重大なことになるとは思わなかった」と話し、反省の態度を示しているという。 自転車でも、飲酒運転は道路交通法違反になるか否かは定かにしない。そのうち飲酒歩行も処罰の対象になるのだろうか。 それにしても、冗談口をたれ込んで「不謹慎」とか「学生指導をしっかりせよ」というのは、恐らく冗談半分の書き込みなのだろうが、このような「正論」が一番厄介である。でも、「大学の名誉を傷つける不適切な行為」の科で処分の対象にすべきほどのこととも思えない。 「大学の名誉を傷つける」という抽象的な処罰理由で、三ヶ月の停学処分というのは処罰権の乱用だろう。精々学部長か学生部長の訓告注意くらいが妥当な処分であろう。受験生確保に必死になっている各大学が体面を維持するための方策なのかもしれないが、こうした処分の行使の方が余程大学の名誉を傷つけている、少なくとも大学の見識を疑わせる。 福岡大学が現在前期の試験期間中なら、停学処分の施行日次第では、当該学生は受験資格喪失で留年になる可能性がある。仮にも留年となれば、授業料の負担は過重である。当該学生は、アルバイト先での飲み会かで飲んで自転車を運転したのである。アルバイトで得た収入の一部は、大学の授業料等に当てられていると推測して間違いあるまいと思う。 ところで、福岡大学は、08年度末で、36億8千8百万円の資産運用上の損失を計上している。学生がアルバイトで得たり、父兄が負担している学生納付金をデリバティブなどで運用して損失を出したのだろうと推測する。3年前のこととてその後の経緯は、全く分からないが、この損失計上をめぐって大学法人はどのような責任をとったのであろうか。もちろん、資産運用は理事会の責任に属することであるが、大学の名誉を著しく傷つけたことには相違ない。 そもそも国庫による助成金を受けている学校法人が経理上の黒字を確保して資産運用ができるほどなら、助成金の返上を申し出ることが先である。公的資金の返済に相当する。 助成金を含む資産を運用して失敗しているのは、一部であれ国税を無駄遣いしているに等しいのだから、税負担者である国民に福岡大学は謝罪したのであろうか。寡聞にしてそうしたことを聞き及んでいない。にもかかわらず、大学の名誉を傷つけた科で学生を処分するということだけは素早い。素早い今回の処分の公表は、福岡大学の名誉を傷つけることになるだろう。 昨今の国の政治と同じ図式を見る何と寒々とした光景ではなかろうか。
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