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解釈と鑑賞 [教育]

国文学の研究分野で七十五年の歴史と伝統を持つ雑誌「国文学 解釈と鑑賞」が通巻965号で休刊されることが過日報道せられた。出版元のぎょうせい出版事業部は、「購読数の減少で、雑誌としての採算が取れないため、このたび休刊が決まりました。国文学専門の人に多く読まれ、ファンも多かったのですが」と話した。
文学部には国文学学科とか専攻とか日本語日本文学専攻を設置している大学は多い。中には文学部と名乗るが国文学だけしかない大学も存する。そうした中、国文学を専攻する学生も減少傾向にあると聞く。専攻しても、古典文学は避けて、専ら現代文学を学ぶ学生が多い。読者数が減少するのも時代の趨勢なのであろう。
一般に、解釈というと古典文学や文学の世界のことのように思われることが多い。特に訓詁注釈の学問を独創性の観点から軽く見る傾向が強い。強い時期があった。特に古典文学や古典の解釈を軽く見るというか、重んじない場合が多い。きちんとした解釈の方法や思考の訓練が欠けているからないのではないかと思うのである。
そもそも解釈とは、解釈されるべき対象すなわち基準や基本になる文章や言葉との関係の中で成立するものである。文章や言葉を読み解く行為を解釈と称する。読み解き方は多様である。現象や事象は一つしかないにも関わらず解釈は多様であるとは、一つだと考えている現象や事象が実は複雑な複合的現象や事象を内包しているということであって、その反映が多様な解釈を許すことになる。
仏教にせよ、キリスト教にせよ、釈迦やイエスキリストの教えの解釈の相異から多数の宗派が生じているのなどは解釈の問題の顕著な事例であろう。
文学の世界に限らず、法律の世界も、詮ずると、憲法を理念として成立している法文や条文の解釈の問題に帰着する場合が多い。憲法ついても、条文をめぐって多様な解釈がなされているのは周知のことである。
経済の分野でも、米国のFRBのグリーンスパーン元議長やバーナンキ議長の発言、日銀総裁の片言隻句が解釈の対象になって市場が揺れることが多い。FRB議長の発言を専門に追究しているエコノミストもいて、TVの経済番組などに登場して事細かな分析解釈を披露しているのを聞くことが多くなっている。
一国の宰相や大統領の発言も同じである。
昔から理屈と膏薬はどこにでも付く、と言われてきた。これは全てのことが解釈の対象になっているということを平たく言っていることなのである。
解釈のためには、あらゆる知識や経験を総動員することが求められる。解釈のための準備は、常に怠ってはならないのである。
国文学を対象とした雑誌とはいえ、解釈と鑑賞という雑誌が休刊することの象徴することは軽いことでないのかもしれない。つまり、解釈という営みが薄く弱くなって、解釈するための訓練が貧弱になっていることの反映なのかもしれないのである。教育の現場では、解釈を軽く扱うのではなく、解釈の意味をきちんと教えることが大切である。
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