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尖閣問題(解決せざるを以て解決とする) [事実と論理]

 日中国交正常化の過程で、鄧小平氏は、領土問題について、解決せざるを以て解決するという論理で国交回復の実現を果たしたという。恐らく日本側でもこの論理に従って国交回復実現を最重要課題としてしたのだと理解してよいだろう。
思えば、この「解決せざるを以て解決する」という論理は、中国的思惟の特質を端的に表しているといえよう。分析をこととする西洋的論理に慣れた論理思考では理解し難いと言えるかもしれない。
我々は、禅宗や法華教を仏教宗派として一括りにするが、この両者は仏教本来の思想とは異なり、仏教でないというのが、仏教思想理解の通説的理解である。仏教とはいうものの、中国仏教だということである。中国思想と融合して生まれた中国化された仏教なのである。
殊に法華教の論理として特徴付けられる相即の論理では、「悟る」ということについて、「悟るということは悟ならないことをも含む」という立場に立っている。この論理思考を嫌悪する他宗派の人も多い。そのことはともかく、この論理は正に上の「解決せざるを以て解決する」という論理と同じである。
そして、法華教思想が形成されるよりも以前、仏教思想が中国人に受容されるより前の時代に、現実問題に対応する屈折した論理が展開されている。それは「実与(ゆる)すも、文与(ゆる)さず」という考え方である。事実としては容認するが、理念としては容認しないというのである。
尖閣問題に即して言えば、尖閣の実効支配を日本が続けていることは事実としては一定の理解を示すが、原理的な理念的な領土権の問題としては、日本の主張を容認しないということになる。
そうした微妙な問題を抱える中で、野田首相が領土問題は存在しないという短絡的対応をしているのは如何にも没論理のように思われる。
実効支配しているから、日本に領有権がある、領土問題は存在しないという論理をそのまま適応すれば、北方四島は今やロシアが実効支配していることは明々白々としているから、領土問題は存在しないということになってしまう。野田首相は、既に北方領土は事実上ロシア領土として容認していて、歴史的理念や原理上つまり「文」としては容認していないということなのであろうか。
ロシアの参戦の仕方がどうであれ、第二次世界大戦の結果で領土的野心は認めないということがあったとしても、敗戦国が領土を失うことは歴史的事実である。さすれば、文字通り失地回復には多大な労力と知恵が求められるのは当然であろう。鈴木宗男氏が、二島返還の方向で動いていたのは現実的対応であったかもしれない。今や二島返還も困難になりつつあると見るのが現実把握としては全うだろう。
かつての周恩来氏や鄧小平氏はフランスに留学して知性を鍛錬し、毛沢東氏のように正史や資治通鑑を愛読して自ら詩を作ったと同じ水準で、現在の中国の為政者が知的訓練を得て思考形成をしているのかは分からないが、彼らの発言の論理や思考構造を分析することが重要に思える。話し合いの道がつくのはそこからなのかもしれない。このことについて、日本の為政者や中国を論ずる人、特に後者の人たちの深い洞察力や分析力を期待したいものである。
暴力や憎悪による対応を助長するような分析や論理展開はしないでほしいものである。

近い将来と近いうち:非現実的という現実理解の内実 [事実と論理]

「近い将来」と「近いうち」との言葉をめぐって政局が動いている。近い将来と近いうちは、五十歩百歩の相異に過ぎない。類義語だと言ってもよい。政治は言葉の価値争奪だとしても、類義語の範囲で動くのが政治の論理であるとすれば、政治の世界は、一寸先は闇だという非条理の世界だということでもある。
解散権は総理の専決事項であるとされるなかで、解散の時期を明確にせよと迫るのは、一種の越権行為である。解散についてはウソをついてもよいとも言われる。虚実入り交じる政治の世界でウソをつくことが容認されている事象が総理の解散権だとすれば、解散権の行使を迫る議員は寧ろ自己解散する、つまり議員辞職をすることで総理の解散権に対抗できるはずである。
国会が解散されると議員は議場で万歳三唱するのが恒例であるが、これも奇妙な儀式である。ことほど政治の世界は非条理であるが、正に祭りごとという非条理の延長にある政(まつりごと)だからなのであろう。

枝野経済産業大臣が「原発ゼロは経済にはむしろプラス」と発言したことに関して、経済界は一斉に非現実的だと激しく反発しているとのこと。この非現実的という現実認識こそがむしろ非現実的なのである。なぜなら、原発の非経済性、つまり安全を担保できない、使用済み核燃料の処理の問題、経済人が最も避けたがる高コストな燃料であって経済合理性に著しく背反するエネルギーであることを隠蔽しているからである。
そうした具体的な問題から離れて考えても、非現実的という言葉は、屡々自らの現実認識に正当性があるかの如からしむる非実証的な論断として用いられる。
そもそも現実は変化を内包するのを常としている。現実は非現実と表裏を為していると言ってもよい。どちらの側から見るかによって、非現実的であるとも見えるだろうし、現実的だとも見える。
非現実的に見える事態や事象は現実化する芽を胚胎しているということである。そうした現実認識をもてないのは、意図的でないとすれば、思考回路が詰まっているのであろう。さもなくんば、目先の利害にとらわれすぎた見方であって、それを押しつけるのはいかにも傲慢である。
科学技術の発展によって、他国に依存しないですむエネルギー政策が可能であることを今回の原発事故は知らしめたと理解するのが最も現実的であり、理念的であろう。先の大戦の原因はエネルギーという根源的資源問題が根底にあったことを思い起こすべきであろう。
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大震災の瓦礫の搬入先 [事実と論理]

中部電力の社員が公聴会で今回の原発事故では、「だれ一人死んだものはいない。だから原発を推進することは何ら問題はない」と発言して、中電の幹部も慎重さを欠いた発言だと遺憾の意を表明した。この程度の乱暴な議論を平然とする徒輩が中電にいる。否、独占事業体の電力会社の傲岸不遜な体質の一端が露呈しただけであると言っても過言ではないだろう。このような電力会社の体質を生み続けさせた自民党政権の付けをそのまま反省もなく継承しているのが野田政権であろう。
そのことはともかく、だれ一人死ななかった原発事故で生じた瓦礫の行き先と受け入れ先にどこも苦慮している。復興の隘路になっている。愛知県知事は受け入れを表明して、県下の自治体に受け入れを要請している。どの自治体も慎重な姿勢を崩していない。直接人を殺していない「安全な」物質だと断言して憚らないのだから、中部電力の敷地内に受け入れて貰うように要請するとよい。少なくとも暴言を発した社員の屋敷に受け入れて貰うことだ。たとい1トンでも2トンでもお願いしてみるに値する。
かつて、水俣病問題が発生した時、原因者のチッソが否定し続けていたとき、怒った漁民が水俣湾の海水を入れたコップを突き出してこれを飲んでみろ!と怒りを爆発させていたことがあった。

目くそ鼻くそを嗤う(シー・シェパードのことなど) [事実と論理]

今朝の日経新聞の「インタービュー②」阪大社会経済研究所教授大竹文雄氏の論調は興味深かった。税の問題に触れて、「税制改革を実現させる前に首相が正しく税金を払うことだ」と鳩山首相の贈与税脱税の問題を指摘している。正しく指摘の通りである。国民や国民の生命をやたらに強調する首相の感覚が庶民感覚と隔たっていることの証左でもある。もっとも庶民もいかにしてずる賢く立ち回るかを考えているのであるから、同レベルの意識から発する言葉なのであろうか。

今でも金融立国論を主張しているのかどうかは定かにしないが、竹中平蔵氏も納税を巧みに逃れようとした履歴をもつ。
また今回の選挙で議員に返り咲いた辻本清美議員も議員活動費とやらを不当に手にしていた経歴をもつ。
民主党幹事長の小沢一郎氏の政治資金規正法に抵触する行為が問題になっている。

「東京都が年末年始に用意した宿泊施設を利用している失業者のうち、現金2万円の求職活動費を受けた後、201人が所在不明になっている問題で、石原慎太郎知事は8日の定例記者会見で、「どこかでけじめをつけないといけない」と述べ、今月18日とした施設の利用期限を延長しない考えを示した。」(読売新聞)

石原知事が五輪招致のために費消した150億円とも言われる税金、あるいは都民銀行への巨額の融資、細かいことを言えば、公費旅行に家族を連れて行ったという都知事がさも憎々しげに「400万円強」の出費に目を光らせている。何とも奇妙な事実認識と評価と言わざるを得ない。都知事も竹中氏もはたまた鳩山首相も選挙というフィルターを通れば何事も許されると思っているのであろうか。権勢と権力を持つ者の歪んだ論理である。

こうした論理を徹底しているのが、下記の記事であろう。
【ブリュッセル支局】AFP通信によると、シー・シェパードは8日、第2昭南丸の船長と乗組員を「海賊行為」の疑いでオランダ司法当局に告訴した。

 同団体の弁護士によると、オランダで告訴したのは、アディ・ギル号の母船にあたる「スティーブ・アーウィン号」が同国船籍であることなどが理由。

 弁護士は、衝突は「暴力的行為だ」と第2昭南丸の行動を非難。アディ・ギル号の船体は100万ドル(約9300万円)相当の被害を受けたなどと主張している。(読売新聞)

バイキングなどに見られるように、さんざん鯨を捕獲して生き延びてきた連中が調査捕鯨すら攻撃の対象にするという一種のテロ行為に近い暴力行為を繰り返していて、それを告訴するというのも目くそ鼻くその類である。

そもそも巨船に小舟が接触するのはコンクリートに卵をぶつけることと同じだと比喩される。そうした危険を承知で行った行為で被った被害(一種の自爆行為)を告訴するというのである。
第2昭南丸も負けずに日本国の裁判所に告訴するか、国際司法裁判所に告訴しても良いような事案であろう。
オランダの司法当局がどのような判断を下すか、興味深い。

捕鯨問題を裁くのは食文化を裁くことでもある。
子供の頃鯨油から生成されたマクリとかいう薬を飲んだ経験をもち、おでんのコロを好んだ者としてはシー・シェパードの独善的な行為の背後に、非戦闘員を含めてホロコーストと言ってもよい無差別の爆弾攻撃をしたり、原爆投下をした行為に見られる人種差別の意識を感じるのである。
イラク攻撃の時もイラクが核兵器を所持しているというのが事の発端であった。事実はそのかけらもなかったのである。シー・シェパードはそうした多くの子供を含めた人民への無差別の爆弾攻撃をこそ、糾弾すべきであろう。それができないのは、武力制圧を被るからであろう。日本政府は強固手段をとらないという前提で抗議行動を過激化させているという薄汚い根性が見て取れる。

首相の納税問題を指弾している大竹氏は、旧政権の政府税調などの専門委員であった履歴をもつ。
旧政権は憲政の常道である選挙を経ずに成立した政権である。選挙の洗礼を得ていない、民意を正しく反映していない安部、福田、麻生の三首相の政権下で、大竹氏が政府税調委員に就任していた問題意識を問うてみたい誘惑に駆られた。
税法を無視しようとした首相の意識と主権在民の理念を無視した旧政権に荷担していた意識との間には何か通ずる点があるように思うのである。


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