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猫つきマンション [自然と人為]

テレビ東京のモーニングサテライトで、時々の経済事情を話題にする中で、東京では、猫つきマンションという形態の賃貸住宅が出現していることを特集していた。
飼い主を失った猫と住むという条件でマンションを賃貸するのである。猫を飼っている女子アナが猫の飼い方が適切かどうか一種の口頭試問を受けていた。この居室空間を賃貸する住人は一応面接を受けなければならないというのである。
猫は高いところに上がる習性があるので、猫が住みやすいように高所にトンネルのようなアナを作ったり、作り付けの本箱のような空間を設けて猫が自由に行動できて、ストレスが溜まらないようにした居室空間に造作されていて、それを承知で賃貸契約を結ぶ仕組みになっている。
最近たまたま血縁縁者が留守をするので、その間猫を預かってくれと頼まれて、猫と三日過ごす機会を得た。人間にすれば、7,8歳の雌の子猫である。雌だから飼って暫くして不妊手術を施したという。
この子猫の長所の一つは、排泄行為が訓練されていて、決まった場所で用をたすことができることである。そうした訓練ができているというので、預かったのであるが、この猫の学習効果という点からみるに、猫が高い所に上らないとストレスがたまるとか、猫の目線よりも上から猫に接するのは猫に不安を与えるとかいう猫愛好者の先入見には疑問を抱くのである。
生まれ落ちてからずっと人の手で育ったとすれば、その環境に適応できる能力は備えていると考えることもできる。高所に行かなくても、あるいは猫の目線より上から接しても、猫が不安を覚える度合いは野生の猫に比べると遙かに少ないはずである。それを一律に猫はこうであるから、こう飼え!とか、いうのは一種の教条主義的対応であり、個性とか生育歴を無視していることになるであろう。
孔子が、性は相近きなり、習いは相遠し、と喝破しているように、猫とて同じであろう。
オオカミに育てられた少年の巧まざる実験に見られるように、知的素質をもつヒトでさえも誕生後の環境と教育のために人間として生きることができなかったのであるから、犬猫とて適切な環境や訓練で育った場合は、外界への反応も異なると考えるべきであろう。
ある落語家が飼っていた犬の頭を帰宅すると、いつも撫でていたが、たまたまある時、いつもの順番と違えて頭を撫でたためにいつも最初に撫でられていた犬が飼い主の落語家の手を噛んだという話を仄聞したことがる。これも犬は順位を重視することからきた条件反射だと説明されるが、むしろ順位を訓練づけた結果のしからしむる所であると考える方がいいのではないかと思う。帰宅すると交互に頭を撫でるようにしていればどうだったのだろうかと疑ってみるのである。
谷崎潤一郎に「痴人の愛」という小説があるが、利益を得んがために工夫している猫つきマンションの考案者の方はともかく、面接をうけてまで借りる猫好きはさしずめ耽猫主義者と言ってもよかろう。
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都心の超高層建築 [自然と人為]

1)東京・墨田区で建設されている「東京スカイツリー」(完成時の高さ634メートル)が29日午前10時17分、東京タワー(港区、1958年完成)の高さ333メートルを超え、国内で最も高い建築物となった。(読売新聞)
2)日本最大級の郊外団地、多摩ニュータウンで約40年前に最初の分譲があった「諏訪2丁目住宅」(東京都多摩市、640戸)の住民が28日、集会を開き団地の全面建て替えを決議した。賛成は区分所有法が定める所有者数の8割を超え有効となり、同ニュータウンで初の建て替えが決まった。現在の5階建て23棟は、13年秋ごろには最も高層で14階建ての7棟、約1200戸の新築に生まれ変わる。(共同通信)

東京は言うに及ばず、大阪、名古屋等の大都市でビルの高層化が加速している。一方で、ビルの空き室率も高くなっているという。狭い土地を効率的に使用とするための建物の高層化であろうが、危険発生を増幅しているとしか思えない。
日本は地震国である。東海大地震、東南海、南海大地震がほぼ間違いなく続いて発生するだろうというのは大方の地震学者の予想する所である。
超高層ビルは建築技術的に関東大震災クラスの地震に耐えられるだけの構造になっていると豪語している。しかし、いくら技術的に自信をもっていてもそれは人知の範囲のことであって、自然の破壊力は人知を越える場合が多いのが常である。
サンフランシスコの大地震で都市高速道路が崩落した時、日本の道路公団の技術者などは、あざ笑うかのように日本の高速道路の堅牢さを誇っていた。ところが、阪神高速道路の大崩落をあの阪神淡路大地震で我々は目の当たりにした。技術水準が低いのではなく、自然の破壊力のすさまじさがそれを凌いでいるだけのことである。そもそも人知は自然に従うものである。自然のメカニズムを追及し明らかにするところに學問の目的がある。さすれば、対象たる自然の力を越えて人知が成り立つはずがないではないか。人間を必要としないロボットの製作を求めているようなものである。
このように考えると、都心の高層建築については高さ規制をするべき時が来ているのではないかと考える。人の住むマンションは階数規制をし、オフィスビルは高さ規制をすることである。そうすることによって、地価の下落を押しとどめる経済効果も生まれるであろう。震災後の復興についても素早い対応が間違いなくできるだろう。
都会のビルの高層化は建築の刹那主義である。そうした刹那主義から脱却するために為政者も技術者も知恵を傾けなければならないであろう。そうした問題を考えさせるのが高さを誇ろうとしているスカイツリーである。人知の浅薄さの象徴なのかも知れないのである。

臓器移植法の改正 [自然と人為]

脳死を「人の死」とすることを前提に、現行では禁止されている15歳未満からの臓器提供を可能とすることを柱とした臓器移植法改正案(A案)が、賛成263、反対167の賛成多数で可決した。
医学的知識も必ずしも十分でない国会議員がどのような根拠で「人の死」を脳死と決めることが出来るのであろうか。脳死が人の死か心臓死が人の死であるのかということは、ずっと論争されてきて決着がついていない。にも拘わらず脳死を人の死と立法府が、公聴会などを通じて十分な議論もせずに裁決で人の死を法的に定めたのである。
15歳以下の臓器移植について、本人の同意を得ることが難しい場合、親権者等の判断同意に委ねられたということは臓器売買等の道を開きかねない。
日本では臓器移植の提供者を一年二年と待つ場合が多く、勢い海外に臓器提供者を頼るという。平たく言えば、金の力で臓器を海外で買い求めると言うことである。生まれつき心臓に欠陥をもった幼児の命を助けたいという両親の悲痛な願いが分からないわけではない。誕生した生命の尊さを思う気持ちは貴い。しかし、世界には心臓移植どころかその日の食糧にも事欠いて餓死する運命を背負う幼児の数は、心臓疾患で生まれる幼児よりも遙かに多い。
人間は機械ではない。にもかかわらず、機械の部品を取り替えるように臓器の移植をすることに疑念を感じている人が多いことが臓器提供者が少ないことの精神的風土的基盤であろうと思う。
従って、上記の法案が参議院で可決されたとしても、臓器の提供者は決して増えないであろう。もし増えるとすれば、臓器移植を金銭的利得の対象とする機会の増大を契機にするものだと考えて差し障りはないだろう。
解散、或いは任期満了に伴う衆議院選挙に於ける重要な争点の一つとして有権者は考えなければならい。
自然と人為の問題をどう考えるのか。地球温暖化やエネルギー問題を考える根底に人の生死の問題は常に横たわっている。そのことは優れて哲学的課題なのである。だから、国民一人一人の問題なのである。一部の国会議員が多数決で数的に決することではないだろう。
米国では兵士の代わりにロボットを使った戦争が考えられ、そうしたロボットの開発研究が行われているという。クローン人間が作られたら、そのクローン人間の臓器を移植するということまでが可能になるかもしれない。さすれば、形を変えた不老長生が実現するのだろうか。
現実の命の問題であるからこそ、こうしたことまで考えさせられるのが、臓器移植の問題なのである。
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