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腹腔鏡手術と口腔外科の読み方 [言葉]

テレビやラジオでは、表題の腹腔や口腔は、「ふくくう」「こうくう」と発音されている。
前者は知らないが、後者について、昔は「こうこうげか」と読んでいた。いつ頃からか、「こうくうげか」と読むようになって、耳慣れない読み方をすると思っていたが、腹腔鏡は「ふくくうきょう」と読むのが定着しているようである。いずれの場合も、「腔」を偏旁の「空」の発音「くう」に引き寄せられて、漢字本来の発音である「こう」を転化させて「くう」と誤読してのことだと推測できる。
漢字の発音それ自体が時代とともに複雑に変遷して正しい漢字の発音がどうかという問題になると、音韻研究の専門家でも厄介な問題領域であるようなので、「こう」を「くう」と読んだからとて別段正しくないとは言えない。
このような例の顕著なのは、消耗の「耗」である。「耗」の発音は正しくは「こう」であるが、偏旁の「毛」の発音は「もう」なので、それに引きづられて「消耗」の発音が「しょうもう」になり、それが定着したのである。だから「しょうこう」と読むと、聞き手は咄嗟に意味がとれないだろう。これも「減耗」となると「げんこう」と発音されるのが通例である、と言えるほどの自信はない。
口腔にせよ、腹腔にせよ、消耗にせよ、概念の表記には漢字を用いていて、その読み方は漢字の発音を日本語のように便宜化して表現しているのだから、「こう」であろうが「くう」であろうが、神経質に拘ることはないかもしれない。
ただ、言葉は精神活動を外在化させているので、思惟や思考と深い繋がりをもつことは言うまでもないので、古人も言うように「言は慎まざる可けんや」ということなるのである。
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橋下大阪市長の言い種 [論理の整合性]

橋下市長の慰安婦問題への発言が物議を醸し、米国政府からも侮辱的内容である、と批判されている。
同氏は、米国が日本占領下のことをもちだして持論の正当化を企図している。また本音論をもちだして同氏に荷担する向きもいる。人間観や世界観は人様々であるので甲論乙駁は世の常であるが、為政者は言葉を大事にしなければならない。言は身の文なり、という。
性欲と食欲は人間の基本的欲望である。それを前提にして道徳は成立している。道徳成立の淵源に立ち至るのは極めて難解な問題を抱えるので、ここでは差し控えるが、橋下氏は為政者としては、職員の勤務態度や成績に関して厳格な対応をしている。
勤労者が自己の労働力をできるだけ高く売る、つまり仕事はそこそこにして給与はできるだけ多く受け取りたいのが「本音」であろう。その「本音」に対しては厳しい反応を示して、より労働者・勤務者としての効率の高い勤務態様を求めて来たことは周知のことである。これは勤労者の道徳心に期待してのことであろう。ところが、今回の同氏は、本音を前提にして論を展開して、常ならざる戦場における兵士の性欲処理の問題として取り上げ道徳心を否定するかの如き論を展開している。
かかる原理の使い分けが平然とできるのが為政者の能力なのかもしれないが、彼の言うフェアでないという論拠も甚だ怪しいものになる。

解任可決の川口元委員長の国益論 [政治]

川口氏は、決議可決後に記者会見し「私は領土と主権を守り日中関係を改善する国益を守ったことで解任される。誠に理不尽だ」と怒りを露(あら)わにした。その上で「野党が憲政史上初めて国益の議論もせず、数を頼りに党利党略で解任した事件だ。国民の政治不信が一層増す。野党の劣化の象徴的事件だ」と野党の対応を批判した。(産経ニュース)
これは小さな問題に見えるが、野中尚人氏の指摘する国会至上主義による「決められない政治」の典型的な症状である。国会の会期中ずっと閣僚が国会に出席し、1年の半分近くは閣僚は国会で座っているだけで、内閣は機能しない。川口氏は閣僚ではないが、中国の首脳と会談するために出張したのだから、会談が延期されたのなら日程を変更するのは当たり前だろう。(池田信夫)

昨日閉会したG20財務相・中央銀行総裁会議では、米国FRBのバーナンキ総裁は既に予定されていた講演会を優先してこの会議を欠席している。
私的な講演会なのかどうかを明らかにしないが、この欠席について、麻生財務相や日銀総裁はどう評価したのであろうか。格別の批判もしていないようである。

理屈と膏薬はどこにでもつくと昔からいわれる。
甲論乙駁するなかで決められているのが、礼法や慣習を含むルールであり、規定であろう。

自分の考える国益概念だけに照らして慣習や規定を無視することを正当化するのは一種のゲリラ的手法である。革命的改変は時にゲリラ的な手法を採る場合もあるが、川口女史の中にもこうした思考が内在していることは興味深い。若い魂の持ち主だとの評価もできるだろう。

池田信夫氏の評価もそうしたゲリラ的問題提起に対するものだとも言えるかもしれない。

古典的発想でも、大義(大礼)の前には細礼(細謹)を顧みずという。

ただこのようなゲリラ的手法で国法や規定を無視する人物を中国の要人が評価して、対等な交渉相手としてか見てくれるかどうかは別問題であろう。中国人は時に原則を重大視する特性を忘れてはならないだろう。

今回の問題も、どちらが大礼であり、どちらが細礼であるかということの価値争奪の問題であるが、細礼だと思っていたことが意外に大礼であったり、大礼だと位置づけていたことがなくても好いような礼法の場合もあったりする。

内野手の連係プレー [プロ野球]

昨日のソフトバンクとロッテの試合でも、二度ほど見られたプレーに、セカンドの本多選手がセンターに抜けるようなゴロを好捕して、無理な体勢からジャンピングスローで一塁に投げて間に合わず内野安打になったのがあった。
センターに抜けるようなゴロをセカンド好捕しても一塁に投げて、きわどいタイミングで打者走者を生かしてしまうことを見て、いつも思っていたのだが、遊撃手もボールを追いかけてきている時には、併殺プレーの時のように遊撃手にトスをして、遊撃手が一塁に投げれば、強い送球になって打者走者をアウトにできるタイミングを掴めるのではなかろうか。併殺プレーの時のように、走者に送球を阻止されることもないのであるから、素早く的確な一塁送球が可能だろう。ゴロを捕ったら自分が一塁に投げるのだという固定観念を捨てることも必要であろう。
投手を強襲したりして三塁やショートが捕球して一塁に投げて打者をアウトにするプレーは頻見する。この場合よりも合理的に連携することになるのだから、日頃から訓練しておけばよりスムーズに守りが堅くなるのではないかと思う。

モーサテ大江アナのこと [ジャーナリズム]

大江アナがモーニングサテライトのNY駐在員となって、始めてその存在を知った。それまで担当していた番組で人気を博していたようで、前の番組担当を離れることが決まった時のコメントなどで話題の女子アナだということだけは知っていたので、モーニングサテライト担当になることを知って、どんな女史だろうかと関心を抱いていた。
4月にNYに赴任して前任者の末武アナとの引き継ぎで始めて姿を見る機会を得た。末武アナは産休に入ることをやけに強調しつつ、大江アナにエールを送っていた。
それから一月ほど経った。人気女子アナだという雰囲気を漂わせていて視聴者から前の担当を外れることを惜しまれているのも、「然もありなん」というか、「宜なるかな」と思った。
担当して二週間ほどは数字などの言い間違えなどもあったが、慣れてきたせいか落ち着いたアナウンスを発揮するようになってきていると思う。
前の番組の彼女のファンなどは早朝のこの番組をみてみると違った人柄の一面を見ることになるのではないかと推察している。
追記:着ているものの色合いや柄も落ち着いた品格を感じさせる印象を抱かせている。
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証券会社の好決算と取引手数料値上げ

安倍政権の経済政策アベノミクスへの期待から急速に株式相場が回復し、野村と大和の連結当期利益(野村は米国会計基準)が7年ぶりの高水準になるなど、各社で好決算が相次いだ。(ロイター)
特別な情報をもとに、年初からの株価上昇を読んでいたのか、好決算を発表した大和証券は正月から信用の取引手数料を倍に値上げしている。それまではネット証券並みの手数料であった。この値上げの根拠は何に拠るのかは分からないが、出来高の増加もあって好決算になったのは当然であろう。正に生き馬の目を抜くすご技だと言える。
株価の上昇は手数料収入を増大させ、消費税収入増大に寄与している点も見逃せないだろう。
株は半年先の経済活動を写すとも言うが、半年先の景気がよくなるのかどうか。実体経済が活気づくことを祈ろう。

生活保護受給者と冠婚葬祭費用 [社会保障]

今朝のテレビで、憲法の生存権の問題に関連して、生活保護制度のことが取り上げられていた。
9万円強の生活保護受給者が月々の」生活のやりくりが精一杯で、友人の葬儀などがあるとお別れにもでられないと謂っていた。
香典などの臨時出費のことを示唆しているのだろうと推測したが、結婚式は呼ばれなければ出席できないが、葬儀は誰でも参列できる。最近では一切のお供えや香典を辞退する人も多い。仮に何らかのお供えをしてお別れを言いたいのだとすれば、野の花を摘んでお供して、お別れをすることだってできるだろう。
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利としての生活保護と冠婚葬祭の志とは少し性格が異なるのではないか、適切な問題提起でないのではないかと直観した。仮に香典までも生活保護費用に計上するとすると、厳密なことをいえば、冠婚葬祭の流儀(宗教的儀礼)との関連問題にまで考えを及ばさねばならないのではなかろうか。

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