SSブログ
公権力の乱用 ブログトップ

野田首相の不退転の意思と柔道金メダリストの逮捕 [公権力の乱用]

野田首相は「2010年代半ばまでに段階的に消費税率を10%まで引き上げる」とした6月の一体改革「成案」をさらに詰めた「素案」を年内をめどに作成するよう指示。「この改革に不退転の決意で臨む」と述べ、強い意気込みを示した。(時事通信)
アテネ、北京五輪の柔道男子66キロ級金メダリストで、九州看護福祉大(熊本県玉名市)の女子柔道部コーチを務めていた内柴正人容疑者(33)=同市=が部員の学生に性的暴行をした疑いが強まったとして、警視庁捜査1課は6日、準強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。【内橋寿明、小泉大士、喜浦遊】(毎日新聞)
名古屋市営バスの事故報告書の虚偽記載問題で、愛知県警は6日、市役所西庁舎(同市中区)内の市交通局を道路交通法違反(事故不申告)容疑で家宅捜索する。これまで市バス営業所の家宅捜索はしていたが、事故不申告の経緯や組織的な関与の程度を裏付けるためには、交通局本庁の家宅捜索も必要と判断したとみられる。(毎日新聞)

野田首相が、ここで「不退転の決意」というのは、いかにも権力者の発想である。いわゆるリーダーシップを勘違いしているのではないであろうか。主権在民の基本的認識を欠落しているように思う。
国家財政破綻の問題、年金制度を含めた社会保障制度改革の問題の原因を作ったのは、野田首相ではないことは言うまでもない。自民党政権下の失政の積み重ねの結果である。そうした負の遺産に取り組むという責任を自ら背負ったのであるが、少なくとも首相が不退転ということばを使って言うことではないだろう。消費税の引き上げ問題を筆頭に国民の生活に密接に関わる事ばかりである。国民の生活に影響する事ばかりである。いな、為政者の失政でもたらされた尻ぬぐいを強いるのに不退転の決意ではあるまい。為政者として指針をきちんと指し示して国民の協力を求めるべきことではなかろうか。むしろ国民が不退転の覚悟でこの難局を凌ぐことができるように導く道筋を明確に指し示すのが国民の負託をうけた首相の指導力ではなかろうか。
今に及んでも国民の半数以上は消費税の引き上げに反対している意味を深刻に受けとめているなら、不退転の決意などということばは発せられないはずだ。こうした居丈だけな権力意識が瀰漫している象徴として柔道の金メダリストの逮捕という警察国家を思わせる警察権力の恣意的とも思える逮捕権行使に繋がっているように思う。
確かに内柴容疑者のやったことは教師・指導者としての道を逸脱したことである。しかし、女性が告訴したのでもない、大学の懲戒解雇処分と未成年の飲酒という不法行為に荷担したという風評を根拠にしていると思えるような準強姦罪での逮捕というのはどうみても警察権力の横暴のようにみえる。民事不介入という警察の原則を踏み外しているといってもよかろう。このように道徳的に見れば、有名人が惹起した明らかに望ましくない行為を梃子にして、かつまた世間の批判を受けにくい問題で警察が権力を行使することには疑問を抱く。
名古屋市交通局に対する道交法違反による捜査にしても警察が組織的に対応している所に何かうそ寒い恐怖を感じる。名古屋交通局も権力の側として長年にわたって不法行為を続けていた所に権力の腐敗をみるが、警察も今頃になって捜査することもなかろう。言ってみれば、十数年も放置していた方がむしろ問題なのではなかろうか。いわゆる泳がしておいて一網打尽にするというやり方そのものである。
こうした権力者の独善的意識と警察権力の恣意的とも思える行使の背後には、国家財政の窮迫がただならぬところまで追い込まれていることの反映なのかもしれないと穿って考えたくなる。
首相も警察も国民の負託を受けていることをいつも謙虚に反芻していなければならない。それが主権在民の意味である。

阿久根市竹原市長の労働組合弾圧 [公権力の乱用]

鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(51)が、市長と対立している市職員労働組合の役員ら職員8人に、市が主催する市民懇談会への出席を命じていることがわかった。
 8日付の命令書では「職員研修の一環」としているが、反市長派の市議らは「市長の支援者がいる場で、職員を糾弾するのが狙いではないか」と話している。
 市民懇談会は、竹原市長が就任した2008年9月以降、各地で開催。市長が市政の現状などを報告するが、市長支持者が多く集まる傾向がある。
 今回の市民懇談会は14日夜。市長は市職労役員4人と、昨年4月の人事異動で降格後、市公平委員会が降格を取り消す判定を出した3人を含む計8人に出席を命じた。
 反市長派の市議は「市長は職員に口封じをするなど、強権的な色合いを強めている。懇談会では8人をつるし上げにするかもしれず、出席して監視する」と話している。(読売新聞:ソネットニュース)

組合の活動家ということだけで、不当な扱いをしていることは明白であろう。過去に組合活動に問題があったとしても、「研修」に名を借りた報復的な措置は、組合活動に対する介入であって、不当な組合弾圧であると言っても過言ではない。
これはまた、竹原市長は、地方自治法に基づく市議会議長の議会出席要請をも平然と無視したのだから、研修を命ぜられた組合活動家も出席を拒否しても容認されるというようなレベルの問題ではない。
市議が出席して監視すると言っているが、出席者をチェックすることも十分考えられ、市議の出席を実力で阻止するかも知れない。市長支持者というのも、何らかの利益誘導を伴う動員市民であるかもしれない。ひょっとするとサングラスをかけて恫喝的な対応をする連中を集めているかも知れない。そうしたやり方は組合弾圧の古典的手法の一つである。
組合も、連合などと相談して関係する市民に大量動員をかけて対抗するぐらいの支援をすべきであろう。こうした場合、数がものをいうのである。怒号が飛び交い、流血の事態も十分想定できるから、警察当局も監視の目を怠ってはならないだろう。
また今回の事態を憂えているであろう阿久根市民は、積極的にこの市民懇談会に出席して監視の目を光らせることである。
一地方都市の中でそのトップが異常な権力支配を走るとどんな事態が生ずるのか、民主主義とは似て非なるおぞましい権力の暴走が罷り通ることをよくよく見ておかねばならない。

竹原信一阿久根市長の権力観 [公権力の乱用]

阿久根市の竹原信一市長が31日、市役所に張り出した職員の人件費総額の紙をはがした男性係長を懲戒免職にした。
 「命令に反していながら反省もしていない」。竹原市長は懲戒免職理由について、きっぱりと言い切った。(8月1日asahicom)
これに対して、<市民の多くが「行きすぎではないか」と驚きの反応を示した。>とも記されている。
また、今日のYOMIURI ONLINEは、「懲戒免職にした元係長の男性を器物損壊容疑で県警に告訴することを明らかにした。」と報じている。
竹原市長の政治的信条や行政手腕については、殆ど不案内であるが、議会の不信任を受けた後の選挙で再選されたのを絶対的権力を付与されたかのような権力の乱用である。懲戒免職に処したというのも解雇権の乱用であろう。
しかも、<反市長派の市議は「不当処分。市民の生活に重大な影響を与えたわけでもない。市長の失職中のことでもあり、市長に処分する権限はないのではないか」と反発>の記事に従えば、市長失職中、つまり市長ではなかった時の職員の行為の是非を問題にして処分するのは、法的根拠を著しく欠いている。
この竹原市長は失職した時点で、張り出した所属職員の総人件費などを記した張り紙を自ら取り除くべきであった。放置していたのは、竹原氏が市役所の壁面に落書きをしたと同じ、彼の言に照らせば、器物損壊容疑に相当する。市長でなくなった者の張り紙はその内容の如何を問わず庁舎の美観を損なうとして、市の職員が撤去する行為は職員の当然の責務であるとも言えよう。竹原氏は再選されて登庁した時点で改めて張り紙を張り出すというのが、筋であろう。
仮に竹原氏が市長選で落選していたら、彼は器物損壊で訴えられ、その張り紙の撤去を命じられたら、それに従わなければならぬと同じことを今回の竹原氏の告訴は意味している。市長に当選したから、許されるという考えは法的安定を著しく損なうものであろう。つまり権力は竹原氏個人に帰属するものではなく、市長という地位に付随しているものであって、権勢と権力とを混同しているのが、竹原氏の権力観だと言える。権勢は地位を持つ人格に付随する場合が多いが、権力は法に付随するものである。
このように考えると、竹原氏の懲戒免職とそれに付随する告訴は解雇権の乱用と過重過大な法的支配の恣意的行使である、と断じても過言ではなかろう。
何でも法的手段に訴えてことを解決しようとするのは、理性ある対応とは言えない。法的根拠に基づいて行政は遂行されるのは言を俟たないが、法の前に人としての常識がなければ、血の通った行政の遂行はできないだろう。竹原氏が真に意図する行政の改革や市政の改革の理念は失われるであろう。法は常識に支えられて成り立つという最も大切なことが失われると権力の乱用と独裁が横行することになる。
恐らく竹原氏が職員の人件費等の張り紙を出したのは、財政の問題を訴えたかったのであろうが、今回の告訴が公金の支出を伴うのであれば、上で述べた理由を含めて公費の乱費に相当する、とも言え、竹原氏のいう市民中心とする考え方とも相容れないのではないか。
民主主義とは金と暇のかかるものであるが、係長と膝つき合わせて話し合えばよいことであって、職員の志気をも萎えさせ、市政改革の理念をも頓挫させるような愚挙としか言いようがない。
市民が竹原氏を再選した意図の真意を謙虚に考え直すのが竹原氏に求められているのではなかろうか。
竹原氏は、「男性は反省しておらず、信賞必罰の意味でも、刑事罰を与えるのは当然」と説明しているようだが、市の職員の仕事ぶりに、恐らく、業を煮やして、張り紙掲示という非常手段まで弄したのであろうが、市長の仕事は、言ってみれば身内の職員に対していかがわしい法的制裁をする程度に、暇であるということを露呈しているようでもある。
この告訴の裁判がどのように審理され、どのような判決がなされるか、興味深い。


草なぎ問題と公権力(警察権力)の乱用 [公権力の乱用]

「草なぎ容疑者は23日午前3時ごろ、港区赤坂9丁目の檜町公園で飲酒し、全裸になった疑い。赤坂署によると、近所の男性から「酔っぱらいが騒いでいる」と110番があり、赤坂署員が駆けつけると、草なぎ容疑者が1人で大声で騒いでいた。職務質問に対し、草なぎ容疑者は「裸だったら何が悪い」と話し、手足をばたつかせて暴れた。同署によると、草なぎ容疑者は逮捕時にかなり酒に酔った状態で、逮捕から約5時間後の呼気検査では1リットル中0・8ミリグラムのアルコールが検出された」

こうした事実がどうして犯罪として扱われるのか。公然と言っても公衆がいたわけでもない。騒いだと言っても、格別他人に迷惑をかけているのでもない。右翼の街宣車のけたたましい騒音に対して通報した男は警察に通報しもしないだろう。通報があっても、警察は取り締まったりはしないであろう。政治活動の自由を保証するという金科玉条があるからである。
草薙くんが騒いだのは個人の鬱屈した何かの発散であったとすれば、それこそ個人の自由の問題である。
 鳩山総務相は「国民に(テレビの買い替えなどで)負担をかけるアナログ放送停波のキャラクターなのに恥ずかしい。最低の人間としか思えない」と強調。とあるが、これまた何を!と言いたくなる。千葉県の自民党支部代表者が公然と無所属を名乗って知事選に臨んだ森田健作知事の方が余程公民を欺く行為であろう。鳩山総務相はそのことに対してどう説明するのか。森田知事と草薙くんとどちらが最低の人間なのか分からない。森田知事は自分を欺き千葉県民を欺いたのである。草なぎくんは、誰も欺いてはいない。
警官に抵抗したのだから、公務執行妨害だとしたり顔に言うのもいたそうだが、警察権力の不当な介入に抵抗するのは国民の抵抗権の一つである。深夜に騒いだことを問題にするなら、昼も夜も変わらず皎皎とライトを照らしているコンビニの営業もはた迷惑であろう。
家宅捜索までしたというのだから、正に警察権力の乱用であり横暴である。薬物所持を想定した予断に基づくもので、明らかに違法な捜索である。こんなことが許されるなら、ちょっとした不始末でも家宅捜査の対象になる。橋下大阪府知事などの弁護士は一斉に反発すべきことなのにそうした声も聞こえてこないのはこれまた不可思議であり、恐ろしい事態である。
このような形で権力が国民を専制的に支配して自由を奪う危険な兆候のように思えてならない。
このような横暴な権力の乱用が容認されることは、確実に暗い時代の到来を予感させる。治安維持法下に生きているのではないかと錯覚させられる。
国民性というのは、変わらないからこそ国民性なのだとすれば、曾て経験した苦い経験をまた舐めることになるのではないかと危惧している。
総選挙もせずに政権を三度もたらい回しにしている自民党の破廉恥さに比べれば、草なぎくんの「蛮行」など取るに足りない。人間は本来無一物である。
臨時ニュースで流して魔女狩りにも似た報道機関の姿勢こそ厳しく反省されるべきである。
それに草彅くんがビールを何杯飲んだとか、焼酎を何杯飲んだとか、何時間飲み続けていたとか、正に個人の自由であって、とやかく言われる筋合いの問題ではない。酒を何杯飲もうが、何時間かけて飲もうが、他人、,まして警察が関与すべきことでもあるまい。都合の悪いときには、民事不介入に照らしてちょっとした問題でも拘わりたがらない警察が何故この問題で、家宅捜査をし、飲んだアルコールの種類と量まで公表するのか。それこそ個人情報の意図的権力的漏洩である。職務上知り得た秘密の暴露という国家公務員としての悪質な逸脱であろう。
鳩山総務相はこの問題に対する昨日の発言を撤回したという。草彅くんは昨日既に反省していると言っているのに送検すると言うではないか。
草彅くんはタレント活動を一時休止して、警察権力即ち国家権力の不法性と戦う戦線を志有る弁護士などと組織して欲しい。したり顔に有名税だとか言っているジャーナリストもいるが、税にしては税法違反の不当な課税をしている現代の魔女狩りである。

公権力の乱用 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。