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竹原信一阿久根市長の権力観 [公権力の乱用]

阿久根市の竹原信一市長が31日、市役所に張り出した職員の人件費総額の紙をはがした男性係長を懲戒免職にした。
 「命令に反していながら反省もしていない」。竹原市長は懲戒免職理由について、きっぱりと言い切った。(8月1日asahicom)
これに対して、<市民の多くが「行きすぎではないか」と驚きの反応を示した。>とも記されている。
また、今日のYOMIURI ONLINEは、「懲戒免職にした元係長の男性を器物損壊容疑で県警に告訴することを明らかにした。」と報じている。
竹原市長の政治的信条や行政手腕については、殆ど不案内であるが、議会の不信任を受けた後の選挙で再選されたのを絶対的権力を付与されたかのような権力の乱用である。懲戒免職に処したというのも解雇権の乱用であろう。
しかも、<反市長派の市議は「不当処分。市民の生活に重大な影響を与えたわけでもない。市長の失職中のことでもあり、市長に処分する権限はないのではないか」と反発>の記事に従えば、市長失職中、つまり市長ではなかった時の職員の行為の是非を問題にして処分するのは、法的根拠を著しく欠いている。
この竹原市長は失職した時点で、張り出した所属職員の総人件費などを記した張り紙を自ら取り除くべきであった。放置していたのは、竹原氏が市役所の壁面に落書きをしたと同じ、彼の言に照らせば、器物損壊容疑に相当する。市長でなくなった者の張り紙はその内容の如何を問わず庁舎の美観を損なうとして、市の職員が撤去する行為は職員の当然の責務であるとも言えよう。竹原氏は再選されて登庁した時点で改めて張り紙を張り出すというのが、筋であろう。
仮に竹原氏が市長選で落選していたら、彼は器物損壊で訴えられ、その張り紙の撤去を命じられたら、それに従わなければならぬと同じことを今回の竹原氏の告訴は意味している。市長に当選したから、許されるという考えは法的安定を著しく損なうものであろう。つまり権力は竹原氏個人に帰属するものではなく、市長という地位に付随しているものであって、権勢と権力とを混同しているのが、竹原氏の権力観だと言える。権勢は地位を持つ人格に付随する場合が多いが、権力は法に付随するものである。
このように考えると、竹原氏の懲戒免職とそれに付随する告訴は解雇権の乱用と過重過大な法的支配の恣意的行使である、と断じても過言ではなかろう。
何でも法的手段に訴えてことを解決しようとするのは、理性ある対応とは言えない。法的根拠に基づいて行政は遂行されるのは言を俟たないが、法の前に人としての常識がなければ、血の通った行政の遂行はできないだろう。竹原氏が真に意図する行政の改革や市政の改革の理念は失われるであろう。法は常識に支えられて成り立つという最も大切なことが失われると権力の乱用と独裁が横行することになる。
恐らく竹原氏が職員の人件費等の張り紙を出したのは、財政の問題を訴えたかったのであろうが、今回の告訴が公金の支出を伴うのであれば、上で述べた理由を含めて公費の乱費に相当する、とも言え、竹原氏のいう市民中心とする考え方とも相容れないのではないか。
民主主義とは金と暇のかかるものであるが、係長と膝つき合わせて話し合えばよいことであって、職員の志気をも萎えさせ、市政改革の理念をも頓挫させるような愚挙としか言いようがない。
市民が竹原氏を再選した意図の真意を謙虚に考え直すのが竹原氏に求められているのではなかろうか。
竹原氏は、「男性は反省しておらず、信賞必罰の意味でも、刑事罰を与えるのは当然」と説明しているようだが、市の職員の仕事ぶりに、恐らく、業を煮やして、張り紙掲示という非常手段まで弄したのであろうが、市長の仕事は、言ってみれば身内の職員に対していかがわしい法的制裁をする程度に、暇であるということを露呈しているようでもある。
この告訴の裁判がどのように審理され、どのような判決がなされるか、興味深い。


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