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国防軍と若年層の献血者激減 [政治]

安倍総裁が最終的に徴兵制度まで視野に入れた構想のもとに国防軍編成を唱えているのか、不分明であるが、国防の名の下に集団的自衛権の行使を可能にすることを目論んでいることは間違いない。自衛隊は、個人の自由意思に基づく志願者の組織である。
一度集団的自衛権の行使を容認するとなると、同盟国アメリカの要請に基づいて、国防軍を派遣しなければならなくなる事態も十分考えられる。また、領海や領土問題を念頭に入れている点もあるだろう。その時志願者集団の兵士だけでは、国防軍は維持できない。南北対立を背景にして、徴兵制度を実施している韓国のように徴兵制にまで踏み込まないと国防軍は維持できないだろう。若者がそうした考え方に従うと安部氏は考えているのだろうか。
最近の統計によると、50代、60代の人は積極的に献血に応じているが、若者を中心にした青壮年層の献血が激減していて、このままだと血液製剤製造に深刻な影響を及ぼしかねないという。
献血にすら消極的な若者に銃を持たせて最前線に立たせることができると考えているのであろうか。現実認識の軽薄さが露呈されている。
現憲法の下でさえ、拡大解釈して政治を動かせているのであるから、国防軍編成や憲法「是正」がなされたら、それこそその時点で事態は想定外の展開をするに違いない。為政者は必ず事態を強権的に進めることは歴史が証明している。
かつこの国防軍思想には、女性の位置づけも考えなければならない。女性自衛官もいる時代であり、男女平等思想のもとで女性をどう位置づけるのか。我が子を喜んで戦場に送り出す親、特に母親はいない。そうした中で強権的に支配を拡大しようとするのは、権力の効率性からみても割に合わないことであるはずだ。平和憲法に従って統治と支配を維持する方がよほど権力の効率的支配と維持行使になるにちがいない。
変化するようならば、それは国民性とは言えないということが正しいとするならば、日本人はまた愚かしい、つまり無駄な労力と人的資源とを費消する道の選択に一歩進めることになるのかもしれない、と危惧すること深刻である。

学校法人の無残な経営 [教育]

南山大学が、デリバティブ取引を解約して、230億円弱の損失を確定したという。このうち160億円は昨年に解約して損失処理を確定していて、残余の契約も解約したという。前年度までに清算しておれば、一億や二億円の損失がなくてもよかったのではないかと推察する。恐らく、早い段階で損切りせずに、持ち直すと楽観視して損失を拡大させたのだろう。学生援助や教職員の待遇の問題になれば、十円単位でケチるのが常であるのに、損失が巨額になれば、一億や二億の金銭に麻痺するのかもしれないが、愚かしいことである。
東海地区の大学では、愛知大学が120億円ほどの損失を出している。両大学とも東海地区では私学の雄を誇っているが、玄人でも失敗する危険な商品に手を出した責任は重大である。
全国の学校法人が巨額の金融資産の損失を招いている中で、愛知大学の理事長が、背任で告発されたと報ぜられている。大学の理事長が背任で告発されたのは最初だとか。裁判の行方も注視しなければならないが、起訴されていないとはいえ、告発された理事長が学長職に留まることができるのかどうか、これまたこの大学の学校運営のあり方が問われるだろう。
聞くところによると、この大学の前理事長(学長)が健康上の理由で辞任して、死亡した時に、退職金が規程に従って支払われたという。この前理事長は経営担当の副学長在任中及び理事長在任中にデリバティブ取引を独断で始めた張本人だという。その後任者である現理事長も副学長在任中に積極的にデリバティブ取引を主導して、損失を肥大化させた背任で告発されたと記事は伝えている。しかも内部資料を精査する過程でその事実が明らかになって問題提起されたのに、明確な対応や説明がなされていないために、教授会でも指弾の決議がされたりしているという。一地方の私立大学の経営問題であるが、教育の面では、堅実で着実な大学との評価も得ていた大学であっただけに、その成り行きが注目される所である。


派遣教員問題 [教育]

先日のNHKのクローズアップ現代で高校教育の現場で派遣教員が盛行している実態が取り上げられていた。同じ非常勤講師でも、高校側が面接して採否に責任を持つのに比べて、派遣教員の場合は、人材の良否は派遣業者の責任に委ねられている。しかも、待遇面でも派遣教員の方が落ちるという。派遣業者が利益を得るのだから当然であろう。
その中で紹介されていた事例では、所謂進学クラスには派遣教員は配当させることが殆どない。教育効果をあげるために専任教員に授業を担当させているのだとか。経営の効率化ということで派遣教員を利用しているであろうが、進学クラスに当たらない生徒は派遣教員が授業を担当するというのは、平等に教育を受ける権利を剥奪していることになろう。経営の視点で派遣教員を利活用しているのであれば、当然生徒の授業料負担は軽減させるように父兄は問題提起すべきであろう。学校が経営の合理性を考えるなら、父兄や生徒も教育の質に見合う授業料しか出さなくてよいはずである。合理的根拠を学校自体が示しているのだから。
私立の高校では、進学率を上げるために特別なクラスを作って、そのクラスの生徒の授業料を減免したり、場合によっては、奨学金まで支給するという。従って、優秀な生徒には交通費と受験料を学校が負担して、有力大学を何校も受験させて、合格率の実績をあげる方便をとっていると聞く。甲子園に出るために優秀な選手を特待生で集めて学校の名を上げようとするのと同じである。
思うに、生徒が教師に求めている最も大切なことは、依怙贔屓をしない、平等に一人の人格として教師が接してくれることである。卒業後でも、分け隔てなく接してくれた教師を慕っているということを見聞きして知っている。
入学時点で、進学クラスと通常クラスの区別が存することを知って、入学したとしても、教育の質の点で差をつけることは機会均等や公平さの原則と理念に背くことになるのだから、当然質に見合った対価つまり授業料を支払えばよいということになろう。
教育産業という言葉が使われるが、学校法人は税法上の特典も与えられているのだから、利益追求だけに目が向いているのは教育機関としての重要な社会的責任を果たしていないことになるだろう。

画竜点睛を欠いた吉川投手のMVP [プロ野球]

両リーグの今年度のMVPが巨人の阿部捕手、ハムの吉川投手に決まった。
阿部捕手のシーズンの活躍は見事であったし、日本シリーズでも巨人優勝の原動力として活躍した。当然のMVP受賞である。
MVPは、リーグ制覇に最も貢献した選手に与えられる最高の賞である。従って、余程の活躍をしない限り優勝チーム以外から選ばれることはない。その点では、ハム優勝の最大の貢献者として吉川投手が選ばれたのは当然である。
ただ、その最高殊勲選手が日本シリーズで見せた投球振りはシーズン中とはかけ離れた内容であった。
左肘の炎症が原因で球威を欠いた投球になったようだが、勝敗を越えた熱戦を期待した側としては、この受賞には陰影を感じるのである。本人も快哉を叫べないものがあるのではないかと思う。彼がせめて中村投手くらいの投球をしていたら、シリーズはもっと盛り上がっただろう。
本人も言うように来年が本当に真価が問われるシーズンになるだろう。

需給ギャップ15兆円とトヨタ商法 [国家財政]

経済は結局は供給と需要の問題に尽きるとも言われる。
今日の我が国のマイナス成長は需要がないからであって、それがデフレを招いている。そこで安倍自民党総裁は、政権を担うと、マイナス金利と無制限の緩和を目指すという。根本の需給ギャップを放置しておいて、そのような財政政策をとっても、需給ギャップを平衡化することはできないだろう。むしろ小渕内閣の時の二の舞になる危惧を覚える。金融政策で経済を動かせるのは、成長路線に乗っている時だけのように思う。
某私立大学がキャンパスを都心に移転させた。そこで30年前に移転していた郊外のキャンパスを売却したことが報ぜられていた。キャンパスの跡地を買ったのは、トヨタ自動車の住宅部門のトヨタホームである。新聞記事では売買の金額は書かれていないが、聞くところでは、売買契約は20億円で、校舎などの施設の撤去費用は大学が負担するという条件らしい。だから、その大学は、10億円も手にしないという。
この大学がこの校地に投資した金額は、160億円から200億円に及ぶとも聞く。当該の学校法人の懐具合や買い手のつかない状況をみて、トヨタは買い叩いたのであろう。宗教法人も土地買収に名乗りをあげたそうだが、大学のある自治体が首肯しなかったとか。それはそうだと推察できる。なぜなら宗教法人が買ってしまうと固定資産税が市には入ってこないと計算したのだと考えるのが筋だろう。住宅会社なら、年月をかけながらでも、住民も移住して、固定資産税収入をえることもできよう。
トヨタホームは、350戸から400戸の家を建てる計画だという。土地付き住宅で一戸について、3000万から3500万円の家を建築したと仮定すると、ただ同然の土地から大きな利益を生むことになるのである。さすがトヨタ商法ということになる。
一方、学校法人は、160億円を越える投資を実質5億円程度にまで資産を減らしたのであるから、実に無残な経営をしたことになる。
両者に生じた需給ギャップの差が貧富の実態となって表れるのが経済活動なのであろうか。

NHKアナの逮捕報道

週末の顔として著名なNHKの森本アナがわいせつ容疑で逮捕された、とNHK当局が遺憾の意を表している。本人は記憶がないと供述しているとか。午後八時頃というから、仕事を終えてどこかで飲んで帰宅する途上の電車内でのことという。
どんな女性かわからないが、有名人が酩酊しているのを観て、遊び心か何か邪心が生じて下世話に言えば、罠にはめようとしたのかもしれない、と憶測したりしている。
記憶がなくなるまで飲むのが不注意だと言えば、そうなるが、記憶がなくなるほど飲むと、わいせつ行為に及ぶ気力も生じないものである。そこにつけこまれたのでなければ、飲酒を言い訳にしたのか、のいずれかであろう。
痴漢行為で汚名を被るだけでなく、とんでもない冤罪を背負った不運な男性も多くいるので、あえて記した。
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田中文科相の大学設置不認可 [教育]

大学設置・学校法人審議会で設置が容認された三大学、秋田公立美術大学、札幌医療保健大学、岡崎女子大の設置認可を「大学の数が多すぎ、教育の質の低下」を理由にして、大臣の権限で認可しなかったことが物議を醸している。政治の教育に対する介入、暴挙だという発言まで飛び出したり、愛知県の大村知事は権限の乱用を越えた行為だと相当興奮して批判をしていた。
新聞などでも、不認可の理由を説明すべきだという論調もある。
既に設立されている私立大学の半分以下で定員割れしているのが現状である。ここ十年来で設置認可された大学が定員を確保しているかどうかの検証がなされるべきであろう。設立認可を申請する場合には、学生確保の目処や成就を示すことになっているという。卒業後の進路の確保も謳われることになっているとか。卒業生がどのような分野で活躍するか、その受け皿があるかいなか、ということも求められていると聞く。
設置審議会が設立後の点検を設置趣意書に従ってやっているかどうか。法科大学院の場合でも計画通りに学生が確保できずに改善が求められている法務研究科も多い。
札幌医療保健大学の場合は知らないが、秋田公立美術大学にせよ、岡崎女子大にせよ、短大の四大化を目指しているのであって、短大としての使命を終えた教育機関を四年制大学に移行して、命脈を保とうとしているだけで、受験生確保は覚束ないであろうと推察される。初年度は入学定員を確保できても、完成年度の四年間で定員割れして四苦八苦している大学はいくらもある。でなければ、私立大学の半数が定員割れという事態をまねいたりしないだろう。
政治の教育への介入というのも奇妙な言い分である。知事が大学の設置不認可を問題にする方が余程教育への介入のように思われる。愛知県にせよ、秋田市にせよ、大学を設置していて、その設置責任者は知事であり市長である。最終的な設置の認可権は文科相が掌握しているが、大学が学生定員を満たしていない時には、当初予算を組んでいるのだから、定員を充足するまで追加合格をせよ、と命ずると聞いたこともある。
また、認可申請に当たっては政治力を利用してお願いという圧力をかけることもないわけではないだろう。大村知事の発言はそうした政治的介入であり、圧力であるとも言える。
田中文科相が不認可にした理由を明示する前に、大学審議会に提出された各大学の設立趣意書を公開した方が今後の教育行政を進めていく上で有意義かもしれないと思う。
秋田公立美術大学は公立大学だから安心だという固定観念を打破する意図が田中大臣にもあったのかもしれないが、大阪では市立大学と府立大学の統合が検討されたり、地方の公立大学は地方財政の悪化を受けて運営に苦慮しているのが実態である。
今回の不認可騒ぎは、既定路線、前例を無視し打破した田中大臣の手続きの異常さに問題が集中しているようだが、だからこそ本質を大臣は突いているとも言える。

追記:不認可の女子大理事長(岡崎女子短期大学学長)は「地元で4年制大学の開学を待っている学生はいる。新たに教員12人の採用も内定していた。学園にとっても受験生にとっても損害は計り知れない」といい、「(設置予定の子ども教育学部のような)保育士を養成する大学は、地域で必要とされている」と言う。
この発言もある意味では不見識であろう。「受験生にとっても損害は計り知れない」というのは、受験すれば、全員合格することが前提になっていて、選抜するだけの志願者がいないかもしれない、という不安を言わずながらに語っているのではなかろうか。短大として、47年間に「18,614人の教員と保育士を送り出してきた実績」を誇っているのであるから、四年制大学に移行することもなかったかもしれない。多くの伝統のある女子大が男女共学へと制度改変している時に、女子大を敢えて設置する趣意も測りかねる。男子を排除するのは、受験生確保の点でもマイナスになるのではなかろうか、といらざる心配をしたくなる。
追記2:結局は三大学とも認可した。認可の通知は文部官僚がしていたが、大臣自身が足を運ぶべきだったろう。また、これらの大学の志願状況を完成年度まで追跡するのがジャーナリストではないかと思う。

沢村賞該当者なしの少数意見 [プロ野球]

SBの攝津投手が沢村賞を獲得したが、選考委員会では、当初該当者なしというのが大勢だったという。
理由の一つは、完投数が3回と少なすぎるということであった。球数制限や中継ぎ、抑えの力が重視される投手起用全盛の中で、チーム事情で完投させない場合も生じているから、少なくなるのもやむを得ない点があり、時代の変化を考慮すべきでもあろう。攝津投手を本格派投手として評価することに躊躇う空気が委員会全体を覆っていたようである。
伝説の投手沢村投手は、ベーブルースやルーゲーリックといった歴史に残るメジャーの強打者と堂々と渡り合ったと伝えられている。そうした沢村投手のイメージを最も重視した委員が村田氏で該当者なしの見解を貫いたとのこと。銓衡委員はいずれも20勝を記録した大投手達であるから、攝津投手の投手としての投球には物足りなさを感じていたのだと思う。しかし、次のような評価も伝えられている。恐らくこの筆者は言わずして沢村賞該当者なし、との見解に疑念を提起しているかのようである。

【SPORTS BAR】3年ほど前、ソフトバンクホークス・王貞治会長と雑談していたとき、「ウチの選手の中でメジャーで即、通用する投手は誰だと思う?」と問いかけられた。「和田(毅=現オリオールズ)か、杉内(俊哉、現巨人)ですか?」と答えたところ、王さんは首を横に振って、こう説明してくれた。

 「摂津(正=当時中継ぎ)だよ。ファルケンボーク(当時抑え)やホールトン(現巨人)が“すぐにでも通用する”って太鼓判を押していた。理由を聞くと、抜群のコントロールだって…」

 メジャーには160キロを投げる投手はゴロゴロいるが、速さだけでは通用しない。成功のカギは“制球力”にあるようだ。

 そういえば…。以前、メジャーを取材した折、何人かの打者に「最高の投手は?」と聞いたところ、「ロイ・ハラデーかな」と即答された。フィリーズの右腕で通算199勝100敗、サイ・ヤング賞に2度(2003、10年)輝いた。150キロに満たない速球ながら抜群の“制球力”があった。

 かつて“精密機械”の異名を取ったグレッグ・マダックス(元ブレーブスなど。通算355勝227敗、サイ・ヤング賞4度)がそうだったように、メジャーでも投手の生命線は制球力である。

 摂津も最速148キロと飛び抜けて速くはないが、スライダー、カーブにシンカーを“針穴”で抑え切る。社会人・JR東日本東北時代、テークバックを小さくして、“早めにトップの位置”を決めることで、ブレがなくなり制球力が増したという。「夕刊フジ」(産経新聞特別記者・清水満)

攝津投手は、中継ぎという沢村賞銓衡委員の誰一人として経験したことのない経験者である。恐らく、先発投手の勝ち星を消しかねない、チームの勝ちをダメにするかもしれない重圧の中で投げ続けた精神の強靱さを先発に回ってからも維持してきたのは銓衡委員が求める本格派投手の重要な条件でもあると言える。
先発に回ってからは、速球で打者を空振りさせることは少なくなってはいるが、速球で空振りをとることができるのは変化球との組み合わせもあるのだから、奪三振数が田中投手やダルビッシュ投手に比べて、少ないのはやむを得ない面があるとは思う。
摂津投手は本格派投手の概念を一つ拡大したとみるべきであろう。
それにしても、村田兆治氏の説明は、解説もそうだが、投手時代と同じように剛速球だが制球を些か欠いた独特の言語世界を形成していて隔靴掻痒の嫌いなきにしもあらずである。

危険球退場の誤審 [プロ野球]

昨日のシリーズ第五戦は、吉川投手の平常心を失った投球で試合は一方的になった。
そうした中でも、加藤選手への多田野投手の投球を柳田球審が訳の分からぬうちに危険球と認定して、多田野投手は退場させられるハメになった。
解説の古田氏も誤審だと明言しているほど難しい判断を要する場面でもなかった。テレビではスロービデオを見ることができるから誤審だと断定できるが、バッターと捕手の背後から判定している球審に見づらかったとは思う。しかも、あの判定で「自分の判断を尊重する」というコメントを柳田氏は出しているのは噴飯物である。スロービデオで審判の判定に納得させられてこそプロの審判であろう。
死球と判断しただけでなく危険球と判定したのは、二重の判断ミスであった。危険球は、ルール上は球審の判断に委ねられる要素が多いようだが、バッターがボールが来る方に頭部を移動させても危険球だというのはおかしい。バッターボックスで構えていて頭部や顔面に投ぜられて始めて危険球だというのが正当な解釈であろう。
今年引退を表明した金本選手に今は中日に所属する三瀬投手が頭部に当てて、危険球退場をさせられたことがあったが、金本選手がボールをよけようとしてしゃがみ込んだ頭部にボールがきてあったのであるから、よけ方が悪いともいえるような状態であった。
昨夜のはバンドをしにいってのことであるから、危険球とは到底思えなかった。柳田氏は、判定をし損なった上に、危険球規定を拡大解釈をしたのである。
昨夜の場合、ハーフスイングか否かを塁審に質すように、球審は、塁審の判断や意見を聞くべきであったろう。塁審を集めて協議した形跡もなかった。
球審は、ファウルボールやチップなどを腕に受けたりして大変な仕事だとつくづく思うが、昨夜のような誤審は試合をつまらなくする。最近は審判の権威も確立していて、五分を超える抗議は退場処分の対象になるのだから、もっと手際よく審判員全体で判定していくのがよいように思う。
半世紀も前の巨人と南海の日本シリーズで、スタンカ投手が投じたアウトコースいっぱいのボールを球審がボールと判定したために、三振で試合終了になるところが終わらず、命拾いした宮本選手のさよならヒットになった。ホークスのコーチ陣が試合終了後も抗議したことがあって、「円城寺あれがボールか秋の空」という円城寺球審を揶揄する俳句(季語があるので)まで作られたことを思い出す。
川柳を追記:「柳田くん北のドームで芝居負け」
審判はコミッショナーの統率下におかれているが、コミッショナーはこの試合を観戦していてどのように審判に訓示を与え、評価するのか、知りたいものである。技術の向上が求められるのではなく、運用の仕方を考えるべき恰好の教材であったと思う。

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