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傍若無人と車内化粧 [時代の風潮]

傍若無人を「ぼうじゅくむじん」と入力すると、「ぼうじゃくぶじん」の誤読とメッセージが出てきた。
一つのことにしか反応できない機械の愚直さというか硬直ぶりを改めて知ることになった。
「無人」は「むじん」と、「無聊」は「ぶりょう」と読み慣わしているだけのことで、傍若無人は、「ぼうじゃくむじん」と読もうが、「ぼうじゃくぶじん」と読もうが、読み手の使い勝手の問題に過ぎない。誤読だと決めつける根拠などは何処にもない。「ぼうじゃくむじん」「ぼうじゃくぶじん」どちらを入力しても反応するように設定することが大切なのであり、何れか一方に決めつけて反応させているのは、そのような設定をした編集者の知識の質と量が問われるだけであろう。
傍若無人は、訓ずれば、「傍らに人無きが若(ごと)し」となる。この言葉は、今では傍若無人な振る舞いというように、良い意味では使われない。しかし、原義に遡れば、精確な典拠には深入りしないが、もともとはある人物が踊りを舞っている内に、傍らに人がいないが如き状態にまで熱中している状態を意味して使われた表現である。踊り手の心境に分け入れば、忘我の境地、無我夢中の状態を指していて決して悪い意味で用いられてはいない。
最近若い女性によく見かける光景として電車内などの公衆の面前での化粧風景がある。外国人からも好ましからざるマナーだと指さされ、多くの日本人からも望ましからざるマナーとして顰蹙を買っている。
当人は家で化粧するだけの時間がなくて、やりかけのままに家を出てきたのか、車内や駅構内でお化粧に余念がない。正に傍らに人無きが若き状態で自己実現を企図しているのであろう。否、よりよい自己実現達成のために傍若無人になっているのである。よりよい自己実現という行為が傍の目には不快感を与え、顰蹙を買っているとすれば、一面では当人の価値の下落を招いていることになる危険性を孕んでいることになる。ご当人は行きずりのその他大勢にどのように思われるかはお構いなしなのであろう。いな、どう思われるかということすら意識に上らない恍惚状態であるのかもしれない。「傍若無人」が望ましからざる状態を形容する用法に転化した所以を示しているようにも思われる。
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