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死刑執行の時季 [司法問題]

今朝の報道では、平成22年7月以来一年半の空白期間をおいて、死刑囚三人に死刑が執行されたという。小川法相は、国民の85%が刑罰の厳格な適用を求めているという世論を背景に職務遂行を果たしたことを強調していた。
死刑制度の是非はさておき、本日の死刑執行は朝方にされたという。
厳しかった寒い冬を終えて、桜開花の便りも聞かれるこの時季、命ある物が成長を迎えている時機の死刑執行を聞いて為政者の自然感覚を疑った。
昔から、死刑は秋から冬にかけての季節に行うというのが礼節に適うことだとされてきた。冬眠する生き物は冬眠し、昆虫類も姿を消す。草木も成長を止める。命ある者がそれぞれ命を終えたり、生命活動を休止する時節に死刑執行という為政者としての責務を果たすのが自然の摂理にも合致するからである。
また今朝執行されたという。日が昇り生命が活動を始める時に、悪逆非道の犯罪者とはいえその生命を終焉させるのは、宗教観を別にしても、地獄の淵に追い落としていることになりはしないかと思う。法相や法務省の官僚にはそうしたことに思いを致す余裕もなかったのであろうか。

宗教法人への非課税制度 [国家財政]

イタリアでも国家財政再建のための増税策の一環としてカトリック系教会への課税を強化するという案が浮上しているというニュースが報ぜられていた。その後の進展は不案内であるが。
昨日のモーニングサテライトで、金環食を見るためということも一つの契機になってプラネタリウムが盛行しているという。あるお寺では、設備投資として2000万円を投じてお寺にプラネタリウムを設置している。僧侶が講話をした後、プラネタリウムを設置している部屋に案内して見学するお参りの人に説明していた。僧侶曰く、これからの少子高齢社会でお参りをして貰うためにプラネタリウムを設置したのだという。参拝者や信者はお布施を寄進しているはずである。プラネタリウムという物質的設備投資で寄進をうけるとなると、これは一種の企業の営利活動と同じである。お布施という任意の寄進は一律ではないので、観覧料に該当しないだけで、実質は同じである。宗教施設内での活動であるから、非営利扱いになって課税対象にならないというのは不合理であると言える。もっと謂えば、一種の脱税行為であるといってもよい。お寺が運営している駐車場はさすがに課税対象になっているとも聞くが、当然であろう。
学校法人でも似たようなことがある。近所の幼稚園を経営する理事者は近隣で売りに出された居宅を借りているのか購入しているのかは知らないが、園児の父兄や職員の駐車場にして使っている。幼稚園に付属する設備として固定資産税は収めていないだろう。
地方自治体によっては、財政の逼迫を理由にして、学校法人の施設でも純粋に教育のために使う目的でない学生食堂の敷地などには固定資産税を課しているところもある。自治体の裁量に委ねられているのは、固定資産税の徴税権が地方にあるからであろう。
デリバティブや為替取引をしている学校法人が多くの損失を計上しているが、考えてみれば、国の補助金を交付されているのに、そうした怪しげな金融取引や活動に手を染めている学校法人を非課税法人とするのも不可解なことで、非合理的なことであろう。
宗教法人への課税を打ち出せば、創価学会を母体にする公明党は他の宗教法人と組んで猛反対をすることは必至である。オウム真理教を宗教法人として認めたのが、サリン事件などを惹起させた遠因であるとも言われているのだから、政治改革、労働市場改悪、税制の抜本的改革など改革改変の時代だというのであれば、全ての制度にわたって妥協のない再検討がなされるべきであろう。

信用取引の株式分割権利 [証券取引]

けふは三月決算の企業の株式配当権利獲得の最終日である。信用取引で株式を買っていると、配当は勿論建てている単元に応じて数ヶ月後に証券会社の口座で現金で振り込まれる。当然のことである。
最近は改善されたのかどうかは不案内であるが、株式分割については、信用取引で買っている株式については一定のルールがある。
100株が株式分割で110株に株数が増えても、信用取引で建てている場合は、分割された10株は証券会社が競売に付してしまうというルールである。もちろん買値が修正されるが、一方的に証券会社だけが分割の権利を行使するのは不可解に思えてならない。
嘗て分割しないのかと取引している証券会社に問い合わせことがある。その時の回答は、規定になっていますという実に紋切り型の返答しかなかった。不快に感じて二度ほど理由を改めて尋ねたが、規定になっています、というのが電話の声であった。
株のプロは信用取引で株式分割の株式は避けるといわれるが、然もありなんと思う。
株式市場を活性化するために個人投資家の動向に期待しているとか表向きは言っていても、実際はかつての大手証券会社などは手数料稼ぎのために機関投資家サイドの営業が中心で個人投資家はゴミ扱いにしていたと言うことを聞いたことがあるが、この信用取引での株式分割の考え方ひとつとっても歴然としている。
株式の教科書には、安いと思えるが、まとまった金子がない時でも、信用取引を利用して買って、半年間後に現引きすると株式を月賦で買ったと同じことになるというような説明を読んだことがある。
現在では、信用取引の期日も半年間だけでなく、証券会社によっては無期限という制度も設けているのだから、株式分割についても買い手の選択権を尊重すべきだろう。
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市名の命名権売却 [名とは何か]

川端達夫総務相は23日の閣議後記者会見で、大阪府泉佐野市が財源確保策として市名も含めたネーミングライツ(命名権)を売却する方針を決めたことに関し、「一般論で言えば市名は安定的に同一の名称が用いられることが望ましく、財政の健全化のために頻繁に名前が変わると各方面への影響が大きいのではないか」と懸念を示した。(時事通信)
総務相の危惧は正当であろう。ただ、一般論で述べる問題でもない。
個別的に考えても、命名権売却に伴う歳入がどれだけの額になるのかは、分からないが、名古屋市が市民会館の命名権を中京大学に売却して得た収入が五千万とか聞いた。年間なのか使用期間中なのかは失念したが。
泉佐野市の知名度や利用価値をどのように買う側が評価するかであろうが、市民生活に直結する市名を何年かに一度、あるいは毎年変更するとなると市民の郷土愛にも影響を及ぼすであろうし、仮にも一年ごとに市名が変わって××○○の泉佐野市と呼称するとなると、市名変更に伴う事務経費だけでもバカにはならないはずである。毎年か数年に一度は看板を書き換え、封筒などの書類は印刷を新たにせねばなるまい。それにどうせ外注しているに違いない業務の電算処理の費用負担も相当な負担になるはずだから、売却収入が全て財源の補填になるわけでもなかろう。それに戸籍処理も長い年月の間に年金記録の消失のような問題を惹起しかねないのではなかろうか。総務省も書類作成で煩雑になることは間違いない。年金支給などにも累が及ぶ恐れなしとも言えないだろう。
このように考えると、増税のための牽制ではないか邪推したくもなる。増税よりは安易でないのかもしれないが、貧すれば鈍した結果、貪することになったのであろうか。
市名の命名権売却がどのような結果になり、総務省がどのような対応をするのか興味深いが、徳島の三好市が愛知県の三好町の町名を継承して三好市を名乗ることに同意しなかったことを放置したようになるのであろうか。
国は巨額の国債発行で歳入不足をカバーしているが、付けは後からやってくるのであるが、地方自治体は打ち出の小槌をもたないので市名売却という文字通りの売名行為という裏稼業に手を染めることになったのであろうが、適正な財政立て直しを図ることを市民の同意を得て図ることが求められているのではなかろうか。
橋下大阪市長は命名権売却のアイデアを称賛しているが、大阪市もそのうちに売却するのであろうか。岩おこしの大阪市とか冠が乗るのか、大阪市の○○のたこ焼きとか名乗ったりするのであろうか。国歌斉唱をことさらに条例制定までして強制する意識と名前を安易に売ることを容認する意識との間には著しい乖離を感じる。
それにしても、金のないというのは何と哀しいことではなかろうか。

猫つきマンション [自然と人為]

テレビ東京のモーニングサテライトで、時々の経済事情を話題にする中で、東京では、猫つきマンションという形態の賃貸住宅が出現していることを特集していた。
飼い主を失った猫と住むという条件でマンションを賃貸するのである。猫を飼っている女子アナが猫の飼い方が適切かどうか一種の口頭試問を受けていた。この居室空間を賃貸する住人は一応面接を受けなければならないというのである。
猫は高いところに上がる習性があるので、猫が住みやすいように高所にトンネルのようなアナを作ったり、作り付けの本箱のような空間を設けて猫が自由に行動できて、ストレスが溜まらないようにした居室空間に造作されていて、それを承知で賃貸契約を結ぶ仕組みになっている。
最近たまたま血縁縁者が留守をするので、その間猫を預かってくれと頼まれて、猫と三日過ごす機会を得た。人間にすれば、7,8歳の雌の子猫である。雌だから飼って暫くして不妊手術を施したという。
この子猫の長所の一つは、排泄行為が訓練されていて、決まった場所で用をたすことができることである。そうした訓練ができているというので、預かったのであるが、この猫の学習効果という点からみるに、猫が高い所に上らないとストレスがたまるとか、猫の目線よりも上から猫に接するのは猫に不安を与えるとかいう猫愛好者の先入見には疑問を抱くのである。
生まれ落ちてからずっと人の手で育ったとすれば、その環境に適応できる能力は備えていると考えることもできる。高所に行かなくても、あるいは猫の目線より上から接しても、猫が不安を覚える度合いは野生の猫に比べると遙かに少ないはずである。それを一律に猫はこうであるから、こう飼え!とか、いうのは一種の教条主義的対応であり、個性とか生育歴を無視していることになるであろう。
孔子が、性は相近きなり、習いは相遠し、と喝破しているように、猫とて同じであろう。
オオカミに育てられた少年の巧まざる実験に見られるように、知的素質をもつヒトでさえも誕生後の環境と教育のために人間として生きることができなかったのであるから、犬猫とて適切な環境や訓練で育った場合は、外界への反応も異なると考えるべきであろう。
ある落語家が飼っていた犬の頭を帰宅すると、いつも撫でていたが、たまたまある時、いつもの順番と違えて頭を撫でたためにいつも最初に撫でられていた犬が飼い主の落語家の手を噛んだという話を仄聞したことがる。これも犬は順位を重視することからきた条件反射だと説明されるが、むしろ順位を訓練づけた結果のしからしむる所であると考える方がいいのではないかと思う。帰宅すると交互に頭を撫でるようにしていればどうだったのだろうかと疑ってみるのである。
谷崎潤一郎に「痴人の愛」という小説があるが、利益を得んがために工夫している猫つきマンションの考案者の方はともかく、面接をうけてまで借りる猫好きはさしずめ耽猫主義者と言ってもよかろう。
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AIJ投資問題 [年金問題]

貴重な企業年金の運用を受託していたAIJ投資顧問会社が2000億円の預かり資産をほとんど消失したことで企業年金運用の問題が盛んに報ぜられ、論ぜられている。この投資顧問業務も当初は認可制だったのが、小泉改革で登録制になり参入がしやすくなったという。
そもそもこの会社を立ち上げた浅川氏は、野村證券に1975年に入社し、やり手として聞こえた人物だという。ちょうどバブル絶頂期に向かう時機に野村證券で活躍したのだから、野村證券も飛ぶ鳥を落とす勢いの頃であった。今では考えられないことだが、求人難の時代で、野村の内定を受けていた学生が他の会社を選んだ時には、野村はあくどい嫌がらせをしたとも言われていた。その野村證券で辣腕を揮った浅川氏がAIJを設立して企業年金の運用に目をつけたのはさすがだとも言える。今回の事件は、偽計業務とか詐欺行為だとかいう見解もあるが、生き馬の目を抜くとも称せられている証券業界でいろんなことを熟知していた人物だから、虚偽の運用成果を報告しても容易く見破られるとは思っていなかったろう。そうした手口を巧みに使っていることが次第に明らかになりつつある。ご本人は責任ある説明もしていない。弁護士の説明も不遜そのものであった。この顧問弁護士も法網を巧みに潜る知恵だけを伝授していたのだろう。野村證券の体質を具現しているというと言い過ぎかもしれないが、証券業界の体質を具現していることは間違いないだろう。この親にしてこの子ありなのであろうか。蛙の子は蛙なのであろうか。
委託する企業年金の側には専門的知識をもった人材がいないと言われているのだから、当初から真面目に運用しようとも考えず、他人様の金だからばれるまで適当に帳簿と金を動かしておけばよいと考えていたのであろうと邪推したくなる。バブル期に拝金主義者のように振る舞ったなれの果てなのだろうが、彼が勉めていた野村證券も危ういという噂が立つほど脆弱な企業になっているのであるから、盛者必衰といえばそれまでだが、貴重な企業年金を失った多くの勤労者には救いがない。
国民の間では、小泉元首相への人気はまだあるようだが、かれのやった改革の総括をすることが大切であろう。自民党を壊すだけで終わっていれば、よかったのだろうが、国民の生活崩壊の端緒をつけていたのかもしれない。
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元巨人投手桑田氏の常識 [プロ野球]

毎年この時期になるとプロ野球界に入団したルーキーたちにプロ野球界で一家を成した選手OB達が講話をして、その話の内容が話題になる。今年は桑田氏が講師を委嘱されて講話したとのこと。
毎日新聞によると、「球界だけに通用する常識はいらない。一般社会に通じる人になってほしい」と話したとある。
彼の言う常識の許容範囲が広いのか、当方の許容範囲が狭すぎるのか分からないが、彼の巨人入団の経緯やその後の波紋、さらには投げる不動産屋とまで酷評されたことを想起すると、彼が積んだ人生経験がそうした訓戒を垂れるまでに成長させたのだろうと思う。
プロ野球界のスカウト活動は理外の理、非常識が常識といわれる。単独指名を受けて希望球団に入り去年の新人王を獲得した選手は入団球団から数億円の「学資支援」を受けていたというのは知る人ぞ知ることであると噂されているし、一位指名を拒否した選手も非常識が常識の対応をしているのである。広岡氏は、原監督は甥に対して一位指名の意味を尊重するように忠告するのが叔父のつとめだと苦言を呈していた。それが世間の常識であろう。
桑田氏が巨人に入団した背後には人に言えない身内の問題が潜んでいたのだろうと推測しているので、彼を一方的に非難批判するのは当たらない部分があると思っているが、野球と同じで結果がものを言うのだから、彼も打者討ち取るための投球の組み立てを語るように、結果を招いたことの次第を説明してもいいように思うが、墓場まで持って行くことなのであろう。
コントロールを乱して痛打を喫することがあるように、社会に通用する人になる前に野球選手としての投球術や技量を磨くことが結局は社会に通用する人格を形成するということ、つまり球界の常識は社会の常識として底の底で通じていることを教えるべきだったように思う。

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