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竹島問題と創氏改名・母語剥奪 [歴史]

韓国の大統領が竹島を「巡視」したといい、韓国海兵隊が竹島上陸訓練をしたとか、8月15日を前後にして日韓関係に更なる亀裂が入りつつある。
そもそも竹島の領有権は、李承晩ラインの強引な設定によって不法に為されたことに端を発していることは歴史の事実である。李承晩氏の反日感情というより、抗日感情は徹底したものであった。長い日本帝国主義の圧政に苦しめられ、それに抵抗していた政治活動には圧制の側に立つものには理解できないことである。
1910年の日韓併合以降に支配した日本が企図した圧政の象徴が、創氏改名と日本語使用の強制であったことは教科書にも書かれているとおりである。
今では結婚による改姓にすら、抵抗を感ずる時代である。女性は出自を明確にするため、中国と同じく結婚によって改姓するこ習俗をもたぬ民族の家の伝統と系譜を重んずる者に氏を創らせ、名を改めさせるという異民族支配の政治的企図は、人類の歴史の中でも希有なほどの暴挙である。
かつまた歴史と伝統の中で日々使われてきた母語を奪って日本語の使用を強制した圧政について日本人は鈍感であるように思う。
社内で英語使用を義務づけている企業で英語を使うのとは異なることである。
言語は言うまでもなく精神活動表現の重要な一つである。言語を奪おうとした発想それ自体についても思いを致してみる必要があろう。
帝国主義思想が地球規模で覆っていた時代の所産であったとしても、異民族支配の手段としてなされた、創氏改名と母語剥奪の思想営為の帰結がどのようなことをもたらしているか、歴史は検証しようとしているとも言えるかもしれない。

近い将来と近いうち:非現実的という現実理解の内実 [事実と論理]

「近い将来」と「近いうち」との言葉をめぐって政局が動いている。近い将来と近いうちは、五十歩百歩の相異に過ぎない。類義語だと言ってもよい。政治は言葉の価値争奪だとしても、類義語の範囲で動くのが政治の論理であるとすれば、政治の世界は、一寸先は闇だという非条理の世界だということでもある。
解散権は総理の専決事項であるとされるなかで、解散の時期を明確にせよと迫るのは、一種の越権行為である。解散についてはウソをついてもよいとも言われる。虚実入り交じる政治の世界でウソをつくことが容認されている事象が総理の解散権だとすれば、解散権の行使を迫る議員は寧ろ自己解散する、つまり議員辞職をすることで総理の解散権に対抗できるはずである。
国会が解散されると議員は議場で万歳三唱するのが恒例であるが、これも奇妙な儀式である。ことほど政治の世界は非条理であるが、正に祭りごとという非条理の延長にある政(まつりごと)だからなのであろう。

枝野経済産業大臣が「原発ゼロは経済にはむしろプラス」と発言したことに関して、経済界は一斉に非現実的だと激しく反発しているとのこと。この非現実的という現実認識こそがむしろ非現実的なのである。なぜなら、原発の非経済性、つまり安全を担保できない、使用済み核燃料の処理の問題、経済人が最も避けたがる高コストな燃料であって経済合理性に著しく背反するエネルギーであることを隠蔽しているからである。
そうした具体的な問題から離れて考えても、非現実的という言葉は、屡々自らの現実認識に正当性があるかの如からしむる非実証的な論断として用いられる。
そもそも現実は変化を内包するのを常としている。現実は非現実と表裏を為していると言ってもよい。どちらの側から見るかによって、非現実的であるとも見えるだろうし、現実的だとも見える。
非現実的に見える事態や事象は現実化する芽を胚胎しているということである。そうした現実認識をもてないのは、意図的でないとすれば、思考回路が詰まっているのであろう。さもなくんば、目先の利害にとらわれすぎた見方であって、それを押しつけるのはいかにも傲慢である。
科学技術の発展によって、他国に依存しないですむエネルギー政策が可能であることを今回の原発事故は知らしめたと理解するのが最も現実的であり、理念的であろう。先の大戦の原因はエネルギーという根源的資源問題が根底にあったことを思い起こすべきであろう。
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五輪バドミントン失格問題

<玉木さんは「バドミントンは右利きか左利きかなど、相手の特徴で得手不得手が大きく分かれる。決勝トーナメントの相手を『選ぶ』のは当然」と“無気力試合”は制度が生んだゆがみと指摘。さらに「『わざと負けた』など本当に判定できるのか」との疑問も呈した。
(中略)
サッカー男子元日本代表の柱谷幸一さん(元J1浦和ゼネラルマネジャー)は、「トーナメントを優位に戦うための戦略としては、サッカーではよくあること」と語る。例えば、68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたサッカー男子の日本代表は、準々決勝で地元メキシコとの対戦を避けるため、1次リーグ最終戦では引き分けを狙い、実際に引き分けたことを、後に当時の監督が明らかにしている。
 ただし、佐々木監督が、試合直後に公言したことには疑問の声もある。柱谷さんは、対戦相手の南アフリカの感情をおもんぱかり、「相手のあることだから難しい」と話し、玉木さんは「言わなくても良いのに(佐々木監督は)変に真面目な人だな、と思った」と語った。>(毎日新聞)
 昔から理屈と膏薬はどこにでもつくと言われてきた。一つの事象が見方によって、あるいは条件設定の如何によって理由付けや解釈とか見解が分かれることを確認している世間知である。
今回の五輪に限らないが、審判の不手際には厳しい批判が出される。選手も審判も宣誓している。今回はコーチの代表も宣誓している。とすれば、上記の発言は、宣誓の重みを無視している。言葉の軽視である。言葉の軽視は、自己の言葉だけに正当性があるとする立場と変わらない。客観性の欠落である。制度の欠陥が精神の欠陥を助長することを容認するのは、制度のもつ本質であろう。
スポーツ選手の勝利至上主義によってもたらされる「キタナイ」プレーはどの分野でもあるが、男子サッカーはそれが特に酷い。女子サッカーでは反則でプレーが中断することは殆どないが、男子では相手のユニホームを引っ張るのは日常茶飯事、肘で相手選手の顔などにパンチを食らわせることもよく見かける光景である。
このような下地をもつ競技だから、日程を有利にしようとする小賢しい意識が働きそれを我がこと得たりと公言できるのであろう。
相撲世界で八百長が問題になり、社会問題にまで発展したが、サッカーやバドミントンの試合で露呈した問題も同質のことだとみるのが妥当だろう。
バドミントンなどは、優雅な競技に見られがちだが、前回の北京大会で見せた韓国選手の執拗な審判への食い下がりを想起すると、今回の失格は、制度的欠陥ではなく、制度を悪用しようとして、制度の隙間をくぐり抜けようとして、天網恢恢疎にして失わざる天の網に引っかかったというのだと理解している。

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