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五輪バドミントン失格問題

<玉木さんは「バドミントンは右利きか左利きかなど、相手の特徴で得手不得手が大きく分かれる。決勝トーナメントの相手を『選ぶ』のは当然」と“無気力試合”は制度が生んだゆがみと指摘。さらに「『わざと負けた』など本当に判定できるのか」との疑問も呈した。
(中略)
サッカー男子元日本代表の柱谷幸一さん(元J1浦和ゼネラルマネジャー)は、「トーナメントを優位に戦うための戦略としては、サッカーではよくあること」と語る。例えば、68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたサッカー男子の日本代表は、準々決勝で地元メキシコとの対戦を避けるため、1次リーグ最終戦では引き分けを狙い、実際に引き分けたことを、後に当時の監督が明らかにしている。
 ただし、佐々木監督が、試合直後に公言したことには疑問の声もある。柱谷さんは、対戦相手の南アフリカの感情をおもんぱかり、「相手のあることだから難しい」と話し、玉木さんは「言わなくても良いのに(佐々木監督は)変に真面目な人だな、と思った」と語った。>(毎日新聞)
 昔から理屈と膏薬はどこにでもつくと言われてきた。一つの事象が見方によって、あるいは条件設定の如何によって理由付けや解釈とか見解が分かれることを確認している世間知である。
今回の五輪に限らないが、審判の不手際には厳しい批判が出される。選手も審判も宣誓している。今回はコーチの代表も宣誓している。とすれば、上記の発言は、宣誓の重みを無視している。言葉の軽視である。言葉の軽視は、自己の言葉だけに正当性があるとする立場と変わらない。客観性の欠落である。制度の欠陥が精神の欠陥を助長することを容認するのは、制度のもつ本質であろう。
スポーツ選手の勝利至上主義によってもたらされる「キタナイ」プレーはどの分野でもあるが、男子サッカーはそれが特に酷い。女子サッカーでは反則でプレーが中断することは殆どないが、男子では相手のユニホームを引っ張るのは日常茶飯事、肘で相手選手の顔などにパンチを食らわせることもよく見かける光景である。
このような下地をもつ競技だから、日程を有利にしようとする小賢しい意識が働きそれを我がこと得たりと公言できるのであろう。
相撲世界で八百長が問題になり、社会問題にまで発展したが、サッカーやバドミントンの試合で露呈した問題も同質のことだとみるのが妥当だろう。
バドミントンなどは、優雅な競技に見られがちだが、前回の北京大会で見せた韓国選手の執拗な審判への食い下がりを想起すると、今回の失格は、制度的欠陥ではなく、制度を悪用しようとして、制度の隙間をくぐり抜けようとして、天網恢恢疎にして失わざる天の網に引っかかったというのだと理解している。
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