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大阪府知事の自殺容認論 [政治と言葉]

心斎橋での通り魔殺人事件に関連して、
<大阪府の松井一郎知事は11日、大阪府警に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された礒飛京三容疑者について、「関係のない人をなぜ巻き込むのか。自己完結すべきだ」と話した。

 礒飛容疑者が「自殺をしようと思ったが死にきれなかった。人を殺してしまえば死刑になると思った」などと供述していることを受け、記者団の質問に答えた。

 松井知事は「自殺対策は大阪府もやっている。死にたくなければ、相談窓口に来ればいい」と話す一方で、「人を巻き込み、本当にムカムカする。行政の支援を受けたくなく、この世からいなくなりたいのならば、止めようがない」と述べた。>(産経ニュース)
自殺対策を行政として実施していると吹聴する一方で、自殺を容認すると誤解されかねない発言をするのは、行政のトップとしては頂けない。自己矛盾であろう。自殺対策を十全に実行しようとするなら自己完結的に対策ができなかった不十分さを先ず反省するのが為政者の責任であろう。感情に走った投げやりな発言だといわざるを得ない。
市井の徒が死にたい奴は人を巻き込まずに勝手に死ぬべきだというのは茶飲み話として容認できる。自殺擁護論である。もし府知事が自殺擁護の立場に立つなら、自殺対策室は即刻閉鎖するのが理の当然なのである。
芥川は絶対者の神に唯一できないことは自殺することであると喝破している。人は自らの命を絶つ権利をある意味では持っているが、それは個人の問題である。公的機関の責任者が自殺擁護を説くと、話を複雑にして為政者の資質が問われることになる。

「誠心誠意」と「正心誠意」 [政治と言葉]

首相が、初の所信表明演説で、国民の理解と野党の協力を得るための「キーワード」として使ったのは、「正心誠意」という言葉だった。
 これは、一般に知られている「誠心誠意」をもじった言葉ではなく、幕末に幕臣として活躍した勝海舟の談話を集めた「氷川清話」に、勝が政治の極意を語った言葉として収録されている。さらに、松下政経塾出身の首相にとっては師に当たる松下幸之助氏が、「上手下手より誠心誠意」という言葉を残していることもきっかけになった。
 首相周辺によると、「国民に何でもかんでもお願いするのではなく、自分が正しいと思うことなら誠意を持って国民に尽くすという意味で、こちらがふさわしい」と首相が判断し、「正心誠意」を選んだという。(読売)

松下政経塾で、野田首相がどのような教育を受けたのかは定かではないが、この記事を書いた記者の教育水準は余り褒められたものではない。
四書五経というのも、死語に近くなって、一般の人のみならず、中国のことを学んでいる研究者(現代・伝統中国を問わず)でも言葉自体は知っていても、読んだことのある人は殆どいない時代であるから、この記者が「正心誠意」の言葉が「大学」の最初の言葉であることなど思いも付かなかったのであろうか。
典拠を知らなくても、訓読の知識があれば、<首相周辺によると、「国民に何でもかんでもお願いするのではなく、自分が正しいと思うことなら誠意を持って国民に尽くすという意味で、こちらがふさわしい」と首相が判断し、「正心誠意」を選んだという>というような奇特な記事は書かないであろう。もっとも首相周辺の解説が奇特なのであるが。
「誠心誠意」は「心を誠にし意を誠にする」こと、つまり「心と意を誠にする」ことである。
「正心誠意」は「心を正しくし意を誠にす」ということである。
首相周辺の解釈は、拡大解釈どころか、牽強付会して増税路線を国民に強いようとするかのごとき都合のよい解釈であって、首相の真意を理解していないのかもしれない。否、首相の真意を理解しすぎているのかもしれない。
いずれにせよ、この言葉を引用した首相は自己のあり方を問題にしているのであって、自らの心構えすなわち政治に取り組む姿勢を吐露していると考えるのが尋常な理解であろう。
「修身斉家治国平天下」と要約されることが多く、なかなか厄介な章句であるが、「大学」の第一章では次のように述べている。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。其の知を致すは物を格(ただ)すに在り」
最後の「格物致知」は解釈の揺れの大きな言葉であって、一種の知識論である。
分かりやすく言えば、この世界や社会の問題について歪みなく捉えつくして、自己の知識や知見をとことん窮め尽くすということである。そこから「心を正しくし意を誠にすること」が導き出されるのである。従って、この「正心誠意」というのは、精神論ではなく、精確な認識論を条件にして成り立っているのである。
全ての為政の根本は此に尽きると古人が考えたのであるから、現実をどう理解して、その現実の処方箋である具体的政策を立案して、如何に実践実行に移すかと言うことが課題になるということなのであろう。
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