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近い将来と近いうち:非現実的という現実理解の内実 [事実と論理]

「近い将来」と「近いうち」との言葉をめぐって政局が動いている。近い将来と近いうちは、五十歩百歩の相異に過ぎない。類義語だと言ってもよい。政治は言葉の価値争奪だとしても、類義語の範囲で動くのが政治の論理であるとすれば、政治の世界は、一寸先は闇だという非条理の世界だということでもある。
解散権は総理の専決事項であるとされるなかで、解散の時期を明確にせよと迫るのは、一種の越権行為である。解散についてはウソをついてもよいとも言われる。虚実入り交じる政治の世界でウソをつくことが容認されている事象が総理の解散権だとすれば、解散権の行使を迫る議員は寧ろ自己解散する、つまり議員辞職をすることで総理の解散権に対抗できるはずである。
国会が解散されると議員は議場で万歳三唱するのが恒例であるが、これも奇妙な儀式である。ことほど政治の世界は非条理であるが、正に祭りごとという非条理の延長にある政(まつりごと)だからなのであろう。

枝野経済産業大臣が「原発ゼロは経済にはむしろプラス」と発言したことに関して、経済界は一斉に非現実的だと激しく反発しているとのこと。この非現実的という現実認識こそがむしろ非現実的なのである。なぜなら、原発の非経済性、つまり安全を担保できない、使用済み核燃料の処理の問題、経済人が最も避けたがる高コストな燃料であって経済合理性に著しく背反するエネルギーであることを隠蔽しているからである。
そうした具体的な問題から離れて考えても、非現実的という言葉は、屡々自らの現実認識に正当性があるかの如からしむる非実証的な論断として用いられる。
そもそも現実は変化を内包するのを常としている。現実は非現実と表裏を為していると言ってもよい。どちらの側から見るかによって、非現実的であるとも見えるだろうし、現実的だとも見える。
非現実的に見える事態や事象は現実化する芽を胚胎しているということである。そうした現実認識をもてないのは、意図的でないとすれば、思考回路が詰まっているのであろう。さもなくんば、目先の利害にとらわれすぎた見方であって、それを押しつけるのはいかにも傲慢である。
科学技術の発展によって、他国に依存しないですむエネルギー政策が可能であることを今回の原発事故は知らしめたと理解するのが最も現実的であり、理念的であろう。先の大戦の原因はエネルギーという根源的資源問題が根底にあったことを思い起こすべきであろう。
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