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英語公用化論 [教育]

楽天が社内公用語として英語を使用することになり、決算の発表も英語で為されている。日本通信の株主通信も英語と日本語が併用されている。
けふの日経夕刊の「あすへの話題」でエッセイスト・寺澤芳男氏が「待ったなし・英語学習」と題して苦労話を交えて英語公用語論を展開している。寺澤氏の書いたものをまともに読んでいないので偏見に近い反応になるかも知れないが、「英語で苦労し続けて六十年、今でも英語圏で生活し苦労は死ぬまで続く。英語がマスターできないために日本人がどんなに損をしてきたか身に沁みているので敢えて叫ぶのである。」と言う。
英語圏で苦労するかしないか、今後も苦労するかどうかは寺澤氏の私的な問題であろう。どんな苦労をしたのか、どんなに損な目にあったのか。英語ができないために損をしてきたのであれば、巨額な外貨を貯め込むことはできなかったのではないか、と素朴な疑問を抱く。
英語がマスターできないから日本が損をしているのではなく、巨大な軍事力を背景に持たないから、外交上の力を発揮できないと考えるのが普通ではないのか。英語が世界の公用語化してきた歴史は英語を使っていたからではない。英語を使ってきた民族や国家が歴史の過程で軍事力を含む政治的経済的力を形成、維持してきた帰結に過ぎない。軍事力を含めた文化的総合力の結果が英語をして世界における最有力な言語たらしめたのである。
主として経済力を基本にする国力と言語の使用の関係を示す証左として、日本語が世界の人々から学ばれ、外国の大学で日本語学科などの専攻分野が設置されていることは、世界における日本の地位が高まっていることを挙げることができる。三、四十年前には日本語を話すことのできる外国人は極めて少なかったことを思えば十分であろう。
寺澤氏は、また次のようにも言う、「日本語は日本人の魂とかの議論は学校以外で生活したことのない学者先生にまかせて、百万人ぐらいは日本人としても充分教養がありしかも美しい発音で、内容のある文法的に正しい英語を話せ、先方の言うことも百パーセント近く理解できるような人を養成しなければ日本の将来はない」と。
日本語は日本人の精神活動の所産であって、学者先生の議論ではないことは自明のことではないだろうか。
内容のある文法的に正しい英語を身につけるためには、中学・高校で、会話を重視しようとするカリキュラムでは身につかないだろう。発音もブロークンな英語が氾濫していて、英語自体が所謂キングスイングリッシュとはほど遠くなっている。
[Have you ]を[Do you have]と言うのが標準とされ、スペルの表記も分かち書きが用いられているのは、本来の英語表現の変化なのだろう。
大学の英語教育もネイティブに学ぶことを重視したり、発音を学ぶためと称してテープを聴かせているような教育では内容のある英語力は身につかない。文学作品も読ませず、英語検定の等級を目指す教育では上記の主張を充たすようなことにはほど遠い。
大学院の博士課程の試験ですら、英語を必須科目にしない大学院もある。大学院の入試でも合格者の英語の得点をもっと厳しくしてもよいが、定員充足を重視するので語学の試験の合格点も甘くなっているのが実情であると聞く。
学力を身につけるのに「待ったなし」という発想自体に疑義を挟まざるを得ない。學問に王道はないのである。英語を身につけるにしても同じだろう。

企業が英語を社内用語化するのは、企業の自由であるが、トップに桁外れの報酬をせしめられているソニーや日産を真に支えているのは誰だと考えているのであろうか。巨額な役員報酬を知って、努力している社員諸氏には申し訳ないが、ソニーの製品は買う気をなくしたし、日産の車には乗りたくない。
十全な英語力を身につけた百万人の人材を養成するとなると、18歳人口の何パーセントが優れた教育を受ける必要があるのか。英語力のみならず、数学などの自然科学の分野でも同じだろう。

英語を社内用語化した楽天は、楽天市場で商品の英語表記をなぜ併記しないのか、分からない。決算発表を英語でしていた社長は、決算内容を新聞社等に配布するに当たって英語の文章だけだったのであろうか。
嘗て金融立国を唱えた経済理論?が破綻した後を承けて、英語立国論の示唆するものの往きつく先を見据えてみたい。
広島原爆受難の日の式典への駐日米大使の出席に対して、原爆投下の機長の子息が異義と不満を表明し、米高官も謝罪の意志なしと表明している。
英語の公用化思想とは、核廃絶とは遠い核の傘に入ることを絶対化することでもあろう。皮肉にもドルが基軸通貨としての地位を失いつつあるなかで、もっと異なった世界観があるのではないかと思う。
嘗て中華文明に心酔しその吸収摂取に躍起になっていた大和民族は漢文によって自己の意識や精神活動を表現していた。独自の文字体系を持っていなかったからでもある。
英語公用語ならぬ漢語公用語の歴史を持つのであるから、歴史状況の甚だしい相異を無視できないが、その受容の歴史を考えてみてもよいかも知れない。
追記:明日は長崎に原爆が投下された日である。非核と平和の主張の枕詞として唯一の被爆国という表現が用いられる。歴史的事実としてはまがう事なき真実である。
しかし、密かに思っていることだが、我が日本も第二次世界大戦時に、原子爆弾に類する大量破壊兵器の開発に血道をあげていた。若し日本が原子爆弾の開発に成功していたら、当時の軍部や政治指導者が他国に先駆けて攻撃兵器として使わなかっただろうか、という疑念である。使わなかっただけでなく、使うことに国民は反対できたであろうか。
あらゆる兵器は、自己や自国の損害を最小限に食い止めて敵対国に効果的な損害を与えることを目的として開発製造される。だから、開発に着手することは使うことを前提にしているのである。日本も核保有を解禁すべしとの過激な意見もある。核非保有の不自由と不利に比べれば、核保有の自由と利益、裏返せば、保有者としての不自由と不利の困難の度合いは高いように思念される。

大学入試検定料の自由化 [教育]

私立大学の入試検定料は何時の頃からか一受験あたり3万5千円と相場が決まっていた。だから、数校あるいは複数学部を受験すれば、10万単位の受験料が必要になる。面白いほど金が飛んで行くな!と受験生を抱えた父兄は慨嘆したものである。
受験を実施する大学の側からすると、志願者の多い関西や東京の大手の有力私大では受験料収入は何十億にも上る。単純に計算して、10万人の受験生がおれば、35億円である。
受験料算定の基礎は明確ではなく、時の流れの中でさじ加減で決められて来た観があり、一種の価格カルテルまがいに全国の私大は3万5千円で統一しているのが実情のようである。
単純に問題作成や印刷、監督業務、採点、あるいは受験会場の設定などなどの直接経費だけを考慮すると3万5千円も必要ではないだろう。ただ広告費用、オープンキャンパスとか、志願者を集めるための間接経費をいれると算定の基準も変わってくる。
宣伝広告は、今でも新聞掲載が一番多いと思うが、その他受験雑誌、駅など公共の場所などで大学の広告が目立つ。殊に一昔二昔前には殆どお目にかかれなかったプロ野球場での大学の広告の多さである。
京セラドームの龍谷大学の広告はTV中継で何時も目にする。先日もヤフードームのCSTVの野球中継で、イメージ広告であるが、関西学院の広告が流されていた。新学部設置を意識したとも言えるが、関西圏出身者が圧倒的に多い現状を打破したいとの念願も読み取れた。こうした経費は膨大であり、受験がメディアの収入源の一部にもなっている証左である。正に受験は経済活動の一端を占めている。受験で飯を食っている人間は多いのである。

少子化時代を迎え、18歳人口の減少、大学の乱立に伴う定員割れの大学の続出、そんな中で受験生確保を目論んで受験料割引制度を導入する大学も増えて、実質的な値下げ競争の時代に突入している。

戦前に設立された大学を持たない中部圏でも私大間の競争が激しさを増していることは已に触れた。
独特の経営路線をとり、公共の市民会館の命名権を取得したりしている中京大学が意識しているのは、笹島地区に進出計画のある落日の愛知大学ではなく、主たる標的は淑徳大学であり、その競争に勝ち抜くため受験日をぶつけたり、受験料の大幅値下げを目論んでいるということが一部の関係者の間で話題になっている。

戦前、中等学校野球大会で中京商業は夏の甲子園三連覇の実績を誇る。その知名度と実績で体育学部設立を皮切りに大学の設置を果たし、今や有力な(中部圏の)大学としての地位を確立したので、数年前から、梅村学園の母体である高校を中京大学附属中京高校(中京大付属中京)と名乗らせている。中京高校付属中京大学と揶揄されていたことなどは遠い昔のことになった。これも偏に大学として受験生を確保するための努力である。

こうした諸経費も受験料を形成する必要経費だと考えると、受験料算定の根拠は更に複雑になり、膨らむ。にもかかわらず、受験料の価格破壊を敢えて仕掛けようとしている意図は苦境を一時のこととして、将来の生き残りの曙光に賭けた長期戦略の一端として理解すべきことであろう。

総じて大学経営の見通しはそう難しいことではないようだが、この大学の戦略や戦術は実に分かりよい。
偏差値を高くするために偏差値対象の入学定員を極度に絞り、附属高校からの進学、予備校が偏差値対象としない推薦入試で大幅に学生定員を確保するというやり方で大学の格の一つである偏差値を上げる。予備校の有為な人材をスカウトして、入試戦略を立てるという手法も用いられているともいう。
このような仕儀を知ると大学も立派な企業であることがよく理解できるのである。にもかかわらず、学校法人として税法上の対象にならないどころか、国庫補助の対象になっているのも不思議と言えば、不思議である。国家百年の計である教育の重視と言えば、聞こえはいいが、日教組が強い府県の学校は学力が低いというような低劣な発言をする大臣がいるのだから、それも怪しいことである。

教育の中身が勝れているから、志願者を集めるのではなく、より多くの志願者を集めることで、勉強や学問に意欲を持つ学生の割合を高くして、有為な人材を卒業させ、社会に送り出すという仕組みである。
この大学の卒業生は県庁職員の採用試験でも実績を伸ばしてきているとも聞く。先日の新司法試験でも8名の合格者を出している。この大学の過去に照らせば、快挙と言ってよい。

さしあたっては、この大学の受験料の値下げ実施決定の報を聞いた近隣の大学の対応が見物であろう。
この地域の受験料値下げ競争が他の地域にまで波及して行くとすれば、諸物価高騰の中で父兄にとっては有り難いことである。しかし、値下げ競争に耐えることができない大学はその財務体質を一層悪化させることになる懼れ大である。
この受験料値下げの仕掛けが実施され、各大学に波及すれば、私大連盟や私学協会傘下の各大学の財政圧迫要因を招きかねないものであるから、連盟や協会からの離脱勧告に発展するかも知れないようなことでもある。もっとも自由競争の否定にもなりそこまではいかないだろうが。

そう考えると、国立大学法人の受験料が同じというのも問われることになる。

情報戦の中で、受験料値下げ情報を流して、昔風に言えば陽動作戦を使って、近隣大学の対応の様子をうかがっているのかも知れない。迂闊にその情報を真に受けてフライイングをする大学を待っているのかも知れない。興味深い神経戦に持ち込んでいるのかも知れない。
受験シーズンの幕開けが待たれると言えば、不謹慎の誹りをうけるかもしれない。

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