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国歌斉唱時の不起立と処分 [憲法問題]

<大阪府の橋下徹知事は17日、入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考えを示した。

 府によると、同様の条例は全国でも例がないという。

 知事は報道陣に、「府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない」と指摘し、「繰り返し違反すれば、免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい」と述べた。>(読売新聞)
東京都は、不起立1回で戒告、2回で減給、3回で停職と処分が規定化され、免職規程を盛り込んだのは全国でも大阪府が最初だという。こうした公務員に対する厳しい規程を容認する風潮は広がっていて、不景気な世相を承けて身分が保証されている公務員への反発・妬みが背後にあるようである。この規程案に対しても、7割を越える人が賛成と答えているアンケートもある。そうして劣情といってもよい人々の意識を巧みに利用しつつ全体主義的囲い込みを企図するのは為政者の常套手段であるが、まんまと囲い込まれているのでないことを祈る。

「国歌を斉唱しないような教員は大阪府にはいらぬ」という発想の方が余程最も守らなければならぬ憲法に違反した思想営為でなかろうか。府民の中には、国歌斉唱に懐疑的な府民もいよう。大阪府という地域が抱えてきた諸問題の背後を考えても、意図するとしないとに拘わらず、橋下知事は「非府民思想」=「非国民思想」の土壌作りを狙ったものなのか、と思わざるを得ない所行である。こうした規律の厳格な基準制定と実施がリーダーシップだと考えているのであろうか。
なぜ国歌斉唱時に起立して同じようにみんなで国歌を歌う義務を人は背負わされるのであろうか。それこそ憲法の保障する思想信条の自由の問題であろう。確かに国歌は国家統合の一つのシンボルであろう。しかし、その国家は国民によって形成された組織体に過ぎない。
本当に国民は国家によって守られているのであろうか。日本人は国家のありがたさを知らなすぎるというような意見をしたり顔に述べる「識者」もいる。むしろ国民が国家を守っているのである。昭和天皇は雑草という草はないと仰せられたが、府民という民もいなければ、国民という民もいないのである。
第二次世界戦争で敗戦した関東軍が満州で敗走する時、背後の「国民」を放棄して、橋を爆破して逃げ延びたりした事例は枚挙にいとまがない。
歌わない自由を容認できない自由主義などは虚構の自由主義である。
自由平等博愛を享受している一人だと思われる大阪府知事が、自由平等博愛の圧殺者にならないことを願う。
国歌を歌わない教員がいることがそんなに目障りになることなのであろうか、不思議でならない。
そのうちに野球場やスポーツ競技場で国歌斉唱に起立しない人がいると、周囲から起立が強要される時がくるのであろうか。
少し拡散し、飛躍するが、福島の原発の放射能を一刻も早く除去することが国家が国民を守ることになるのである。福島県の問題だとしても、全国知事会の開催を求めて、橋下知事も為政者として放射能除去に力を貸すべきであると思われるが。
上の記述に関連して、次の記事を見て吃驚している。
村八分・魔女狩りの発想そのもので、橋下氏が知事になる前に、山口の未成年の殺人事件で弁護士会から批判をされたときの発想に繋がっているようだ。
そもそも、国歌斉唱時の起立と斉唱は教員の職務ではないだろう。国歌斉唱を職務命令とできるのかどうか。そして、それを職務規程違反で処分できるのであろうか。処分権の独裁的乱用と言ってよい。さすがに弁護士出身の知事だけあって、法律を盾にとることだけは心得ているが。
裏を返せば、強権的な統治をしないと行政の執行ができないいら立ちの表れが、八つ当たり的に教育を人質に取っているのかもしれない。また租税収入の伸びを確保できない大阪における企業活動の停滞がその「いらち」を増幅させているのかもしれないが、もちなれぬ権力という魔物に取り憑かれて魔物に踊らされているように思われる。
このような記事を独白的に記していると、非国民とのレッテルが貼られる時代がくるのかもしれない。国民性というのは改まれば、国民性でないということであれば、わが国民はこうした指導者を有り難がって崇め評価する時代に突入しつつあるのかもしれない。
教員を起立させる前に、超勤手当を支給する代わりに、僅か3%を上乗せしただけで、24時間勤務を強いるような教育行政のあり方を反省すべきであろう。
「心服」という言葉がある。形式的に起立さえして発声すらしなければ、橋下氏はその権力の発動の達成に自己満足するのであろうか。
昔、自分が制定した厳しい法律で自分が罰せられた権力者の故事がある。
橋下氏が府立高校の教員になることはなかろうが、職を退いて現在よりももっと自由を制限する時代が到来した時に、自由な発言が問われ罰せられるような時代が来ないことを切望しておこう。
また、<(橋下)知事は記者団に対し「公務員の一員である教員には、職務命令に関しての思想信条の自由は認めない」と強調した。>(共同通信)とある。 このような発想は、放射能問題で参与が首相や原子力安全院のその場限りの対応に抗議して辞任した東大教授の記者会見を「守秘義務違反」云々で脅迫したのと同じである。公務員である前に、日本国民なのである。だから公務員は憲法を遵守する宣誓をしているのである。そもそも「職務命令に関しての思想信条の自由」とはどういう意味なのであろうか。 思想信条の自由は良心に依存する場合が多い。職務命令の前には公務員は良心を失え、いな良心を持ってはならないというに等しい発想である。浪速は伝統的に自由を重ずる風潮の強い土地柄であったはずだが、大阪の代表者がこのような自由の圧殺者、良心の封じ込め者として振る舞い、このような形でしか情報発信能力を持たないのだとすると、大阪の地盤沈下の象徴なのかもしれない。已むぬるかな!

そうでないことを願うが、今回の東北大震災に伴う原発事故のような問題発生では、このような硬直した発想の指導者では現在と同じようにもたついた対応しかできないのではないかと推察している。
東海南海道の大地震発生で引き起こされるであろう原発の危機管理を考えておくべきであるのに、国歌斉唱時の起立のような些事を優先させているのであるから。
大阪府民を放射能から守るのは、日本の原発事故からだけではない。中国の原発が引き起こすであろう災厄、放射能汚染から府民をどう守るのか、そうしたことこそ最優先で考えなければならぬことだろう。

<参考>君が代不起立教員は「府民の批判を」…橋下知事

2011年 05月19日 09時50分
提供元:読売新聞

 入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない教員の処分条例を9月議会に提案する方針の橋下徹・大阪府知事は18日、起立しなかった教員の氏名や学校名の公表を条例に盛り込むことを検討すると明らかにした。
 記者会見で、「(起立を求めた)職務命令は民意に基づくもの。保護者は何回も違反する教員を知りたいはずで、府民の批判を受けるべきだ」と述べた。
 府教委は、懲戒処分で最も重い免職の場合だけ氏名を公表しており、これまで不起立で戒告処分した教諭7人の氏名や学校名は明らかにしていない。
 橋下知事はまた、「君が代不起立の問題だけでなく、職務命令違反全般の処分基準を作らないといけない」と述べ、教員だけでなく、府職員も含め、職務命令違反を処分条例の対象とする考えも示した。
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