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三好市と三好町 [名とは何か]

愛知県の三好町が市制施行に合わせて、三好市と称することに対して、徳島県の三好市が反対しているとのこと。三好町から三好市に同意をえる働きかけをしているが、三好市は拒否を貫いているよし。
同じ町名を避けるようにとの総務省かの所管の中央官庁通達が拠り所とのこと。命名権への中央官庁の過剰介入が問われるべき第一である。察するにデータ入力などの混乱回避ということが過剰介入の言い分なのだろうが、両自治体の拮抗は樗牛の争いとも言うべきことのようにも思われる。

老子冒頭の章に、名無し天地の始めには、とある。名は個別性の象徴である。この個別性の根拠を問うところから世界の根拠を無におく。

「みよし」という名の原義には不案内であるが、三好と名のつく地名は全国に幾つもある。住吉という地名もどこにもある。人が住む前は地名はなかった。人の居住とともに、その土地の属性や願望と結びついて先人が命名した所以を後人が独占使用権を主張するのは人類の、少なくとも日本人の文化的伝統に楯突く者であろう。市制移管に可能な人口に早く達した事実に裏付けされて市名の独占使用権を主張するのは命名権の乱用のように思われる。

三好町は、さぬきうどんの称呼が中国で商標登録されて本家の業者が困惑している図と同じ事例なのかもしれない。

通達行政はそもそもどれだけの強制力をもつのか。三好町が三好市と強行命名すると総務省はその書類を受け付けないかもしれない、という危惧があって、事前に三好町が中央官庁にお伺いを立てたら、恐らく三好市とよく話し合って下さいと言われているのだろう。役人の責任逃れの道筋であろう。
実定法の根拠をもたない通達行政を強行突破をして、訴訟に持ち込み最高裁で争うに値する問題を内包していると思うが、三好市が名に対して示していると同じ情熱を三好町がもっているかどうか。さすれば、名の意味を法に照らしてでも争うということは情念の問題でもある。

東名高速道路に三好インターがあるが、仮に三好町の市名が愛知三好市とかになると、インターの名前も変える必要があるのだろうか。国土交通省の所轄であるから、また別の原則が働くのであろうが、秩序の原理がどこにあるのか、という問題にまで行き着いてしまう。
多様多彩な現実を動かしたり統合するためには、多様な原理が必要なのであろうが、法的支配には整合性が求められるから、通達はその隙間を埋めて権力を機能させているのだろうと思う。
「権」の原義がはかりの分銅であることを想起すると権力の相対化のためにも、三好町は三好市を名乗るべきかもしれない。
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