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裁判員制度への疑問 [司法問題]

いよいよ来年5月から裁判員制度が発足する。愛知では、名古屋市が7千人以上が第一次候補者になり、最も少ない村では3人という。
この制度で選ばれた国民は格別の理由がない限り原則として拒否できない。裁判に関わる義務を国民は負うたことになる。
国民の三大義務は、勤労・納税・教育という。これは憲法に明確に規定されている。裁判員にならねばならぬ義務は憲法上規定されていない。
憲法22条には職業選択の自由が規定されている。
裁判員は一時的な仕事であって、恒久的な職業ではないが、労働の対価即ち報酬は支給される。
報酬を得る仕事は広い意味で暫定的とはいえ職業と規定することも出来る。
職業と規定できるなら、裁判員制度による職業、少なくとも仕事選択の強制は22条に抵触する懼れを内包していると解釈できる。
更に、31条には、「法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われない」とある。法的手続きを得ている裁判員制度とはいえ、その制度の立法の根拠には疑義が存する。とすれば、裁判員の義務化は国民の自由を奪うということにもなりうる。
また、憲法19条には、思想及び良心の自由はこれを侵してはならない、と規定する。20条は、信教の自由も保証している。
裁判員になるということは、人を裁き、人の運命の差配に荷担することである。良心に照らしてそうしたことを行うことを潔しとしない者にとっては憲法の規定に抵触すると判断することは合理的根拠、即ち法的根拠を有する。
信教の自由は宗教上の信仰を保証していることである。人を裁くことを宗教的信念から拒否する者をばこの制度に従わせるのもこれまた憲法に抵触することは間違いない。
仮に良心に逆らい、宗教上の信念を隠して裁判員になり、宗教上の信念に基づいて、宗教的理念で裁判に臨んだ場合、どうなるのであろうか。宗教を司法の場に持ち込んだことにならないか。図式的に言えば、聖と俗の問題をどう考えるのか。特定の宗派の人が裁判員になって、その宗教上の理念を軸にした裁きをどう評価するのか。例えば、親鸞の悪人正機の立場を固守する裁判員は司法の場でどうなるのか、大いに疑問の涌くところであろう。

自衛隊即ち軍事力の保持が憲法に違反するか否かの問題は、長い人類の歴史に照らして考うべきことであって、成文化した憲法だけの範囲で軽々に論じ尽くせない問題であると考えられるが、裁判員制度は明らかに明文化された憲法の枠組の中で整合性を持たねばならぬ問題だと思う。
だから、国民の義務の見直し、追加ということで、この問題に絞った憲法改正という手続きをまず取るべきだったのではないか。そうした改憲論議は見かけなかった。
ここの書き手は、憲法学者でもなければ、法律の専門家でもない。従って、この裁判員制度の問題点がどのように議論されて、克服すべき問題点がどこにあるのかも全くといってよいほど知らない。無知であるが故に、思う所の一端を記してみた。あるいは的外れな見解かも知れない。

タグ:司法
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