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裁判員制度への参加 [司法問題]

裁判員制度が憲法上の問題を内包していることについては、已に論じておいた。
ここではあと半年に逼った制度開始に伴って生じている問題点について若干思うところを述べてみよう。
実際に候補者になった人の多くは戸惑っていると言う。裁判員になることによって、収入の減少などで生活に直接影響する事態を招きかねないこととか、人を裁くことへの不安や躊躇、あるいは煩雑の忌避などが浮かび上がっている一方で、この制度に積極的関心を示している人もいる。
また、模擬裁判などを通してみるに、刑罰の適用が重くなるのではないかという危惧があるかと思えば、人情に流されて仕舞う危険があるのではないかとの見解もある。
民事にせよ、刑事にせよ、何らかの事件に対して、我々はそれぞれの立場や経験、あるいは学識を通じて何らかの評価を下したり感想を抱いている。それはある意味では日常茶飯事のことである。もっと言えば、殆どの人は、常に他人を評したり、褒貶を加えている。ある意味では人の運命に喙を容れているのである。それを裁判員になって実行してもよいというのが今回の制度の眼目であろう。言ってみれば、裁判の井戸端会議化である。今や井戸そのものがなくなっているので、井戸端ではなく、見も知らぬ者が鳩首した素人談義のなかから、一定の結論を出すことを制度化したのである。国家権力の平準化というということもできるし、渾沌化ということもできる。

社会の秩序維持という点で言えば、秩序形成にはいろんな機能が働く。
図式的には、大別して、意識や精神の視点で言えば、恥と罪の意識を中心にすることもできる。意識が外在化した規範としての礼と法を中心に据えるという視点もあるだろう。
裁判員制度は専ら刑事事件に関することに限定されているようだが、社会の安定や個人の生活生命を脅かす行為をどう認定し,どう評価するのかというのが、裁判員の眼目になるのであろうから、個人的な反応の相異は当然生ずる。

昔から、法の適用の原則には、酷吏と循吏という図式がある。
酷吏は法律の文章を厳格に適用する立場の官吏であり、循吏は人情を重視する立場である。同一人物でも時に酷吏にもなるだろうし、循吏にもなるだろう。
従って、事件の内実の把握が一番の眼目になるのは言うまでもない。事実問題の提起は検事や刑事の所業であるから、その事実をどこまで見分けうるのかという所に裁判員の眼力が問われることになる。事実でないことを差し出された時の対応反応が一番問題になるのである。
冤罪かもしれないという疑念を何時も持っていないといけないことではないかと言うことである。換言すれば、疑わしきは罰せずという原則と、被害者が現にいることとの間で裁いていることのしんどさであろうが、プロの裁判官でも誤診をしない医者がいないのと同じで誤審がないわけではない。
更に法律の文章を解釈するのは一つの技術であるから、そうした技術的訓練をしていない者にとっては、法文の整合的解釈と適用はこれまた頭を悩ます問題であろう。
このように考えるとこの制度の厄介さは一様ではない。しかし、そうした厄介さと難しさを知った上で井戸端会議化して人を論罪することもある意味では人のもつ性質の反映であると捉えることもできるのかもしれない。
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